もうすぐ桜の咲く季節。そこかしこでもうあと1ヶ月もしないうちに桜が咲くんだろう、と木々を眺めて思う。「桜は好きか?」と問われたとしたら、以前なら好きです、と答えたと思う。だけど、ここ何年かは桜が咲く度に無為に1年を過ごしたことを痛切に思い知らされるような気がして、だんだんと好きではなくなってきている気がする。嫌いというほどでもないけれど、とりたてて好きでもないような…。
桜の見事に咲いたときと散るときの花びらが舞う様、そしてそれが雨でベタベタになるのは感心するようでもあり、何だか辟易とする時もあり。
インディアンの言葉で戦いに出る日に「今日は死ぬにはいい日だ。」という言葉があるらしい。人生最後の日が来るとしたら、桜が咲き誇って散り始める、そんな晴れた天気のいい日であるといいな、と。また西行法師も歌を残しているね。「願わくば 花の下にて死なん その如月の望月の頃」と。桜の下には死体が埋まっている、とか春になって桜を眺めていると美しい日常のすぐそばに死が潜んでいる、そういうのを無意識に自覚するからなのかも。
こんなことを言うにはまだ若過ぎると言われる年齢なのかもしれないけれど、自分の気持ち的にはもう上っていくばかりの若い頃は過ぎて後半戦。下手したらあっという間に終わってしまうこともあり得る。いつそうなってもいい様に、というわけではないけれど、今、目の前にあることを大事にしながら一歩ずつ出来ることをやっていく、それくらいしか1人の人間に出来ることはない。
2014年3月10日月曜日
2014年2月27日木曜日
知識こそ武器なり
昔とった杵柄とやらで、とある資格取得の為に学生時代に専攻していた学問を再び勉強している。当時は大学の教科書や問題集は解説が不親切でどうしてそうなるのかがよく分からないことが多かったが、今はインターネットで調べるとわりとどんな問題でも詳細な解説が得られたりすることが多い。
そして、知れば知るほどに半世紀以上も前にろくなコンピュータもなかった時代の偉人達の頭脳の素晴らしさと直感の鋭さに感心せざるを得ない。この分野ではノーベル賞が量産されていた時代でもあるものね。 目に見えないものを計測する。たとえばあるエネルギーをもつ光を金属などの物質にぶつけるとその構成原子から電子が飛び出す。光は波じゃなかったのか?なんてことを考えていた当時の人にとっては、何が何だかわけが分からないけれどそれは事実として存在する現象だ、とかそういう物だったのかもしれないね。この辺はいつか余裕があるときに、調べてみると面白そう。
扱う代物が代物なだけに付け焼刃の生半可な知識では却って足元を掬われるかもしれない。資格試験はおそらく8月下旬。あと半年だ。悔いのないように勉強を進めていきたい。時間はあるようで、もうあまり余裕はないはず。知識こそ武器なり、この言葉を信じて努力していこう。
そして、知れば知るほどに半世紀以上も前にろくなコンピュータもなかった時代の偉人達の頭脳の素晴らしさと直感の鋭さに感心せざるを得ない。この分野ではノーベル賞が量産されていた時代でもあるものね。 目に見えないものを計測する。たとえばあるエネルギーをもつ光を金属などの物質にぶつけるとその構成原子から電子が飛び出す。光は波じゃなかったのか?なんてことを考えていた当時の人にとっては、何が何だかわけが分からないけれどそれは事実として存在する現象だ、とかそういう物だったのかもしれないね。この辺はいつか余裕があるときに、調べてみると面白そう。
扱う代物が代物なだけに付け焼刃の生半可な知識では却って足元を掬われるかもしれない。資格試験はおそらく8月下旬。あと半年だ。悔いのないように勉強を進めていきたい。時間はあるようで、もうあまり余裕はないはず。知識こそ武器なり、この言葉を信じて努力していこう。
2014年2月20日木曜日
過去への執着を断ち切って
2014年2月12日水曜日
これが奈落の底なんだろうか
年明けからどうも精神状態がよくない。仕方ないと言えば仕方ない病気ではあるんだけれど…。職場の人にも、明らかに精彩を欠いた顔をしていると言われたし、体重も減り続けている。でも、今回の不調はこの辺で底を打ったような気もする。資格の勉強もずいぶんとサボってしまったけれど、今日から再開。無理をせず1日30分だけでも続けていけたら、と思う。
ほんの少しの他人との気持ちの良いやり取りでずいぶん気が楽になることもある。思うに独りという殻の中に閉じこもって“こじらせてる”感はある。ちょっとしたことで、そこまで深刻に考えなくてもいいのかもね。ただ、余計なことをしゃべってしまった時は相手よりも更に辛辣に批判してくる自分自身がいることも確かなわけで…。そういう時は誰の迷惑にもなっていないのかもしれないけれど、自己嫌悪のループだ。
仕事はやるべきことはやっているはずだけど、どこかで底が浅い内容にイラついてもいる。この漫画のコマのように、バチっとくっつけるというよりはただ見た目がキレイな仕事をただ数をこなしている。何だかんだでもう10ヶ月ほどそんなことをやっていて、まだ数ヶ月はこの作業が続きそう。腐っていても仕方ないし、これくらいで腐っているようでは、新たな道を切り開くなんて夢のまた夢だ。というわけで、目の前にある出来ることをその瞬間瞬間でこなしていくのみ。
ほんの少しの他人との気持ちの良いやり取りでずいぶん気が楽になることもある。思うに独りという殻の中に閉じこもって“こじらせてる”感はある。ちょっとしたことで、そこまで深刻に考えなくてもいいのかもね。ただ、余計なことをしゃべってしまった時は相手よりも更に辛辣に批判してくる自分自身がいることも確かなわけで…。そういう時は誰の迷惑にもなっていないのかもしれないけれど、自己嫌悪のループだ。
一番大事なコトはキレイさではなくてバチっとくっつける溶接 |
仕事はやるべきことはやっているはずだけど、どこかで底が浅い内容にイラついてもいる。この漫画のコマのように、バチっとくっつけるというよりはただ見た目がキレイな仕事をただ数をこなしている。何だかんだでもう10ヶ月ほどそんなことをやっていて、まだ数ヶ月はこの作業が続きそう。腐っていても仕方ないし、これくらいで腐っているようでは、新たな道を切り開くなんて夢のまた夢だ。というわけで、目の前にある出来ることをその瞬間瞬間でこなしていくのみ。
2014年1月12日日曜日
気づき
俺は1年ほど前から精神の安定の為にマインドフルネスという瞑想を実践し続けている。これは、もともと仏教の瞑想法で「気づき」という言葉が英語になってそれが日本に心理療法として入ってきた。最新の心理療法として注目されている。マインドフルであるということ=今、現在自分が何をしているかに常に注意を払って気づいているということだと思っている。マインドフルネスはその名詞形だね。
しかし、瞑想を行っている「座っている時」だけで普段から自分自身の振る舞い、行い、発する言葉に対して注意を行き渡らせているかというとそうではない。自分自身の心を観察できるのは自分ひとりだけだし、これからは行動や言葉を口から発する前にもっと注意深く観察するようにしたい。そうすることで自分が何者であるかを独りでじっくり見つめ直してみよう。意識しないで軽々しく発した言葉で人を傷つけたこともある。もしかしたら、傷つけたことすら気が付いていないこともあったかもしれないね。
今までは“執着”をよく観察しないで手放そうとしていた。反復練習である程度は可能になったと思っているが、もっとその執着の本質をよく観察してから手放すようにしてみよう。
しかし、瞑想を行っている「座っている時」だけで普段から自分自身の振る舞い、行い、発する言葉に対して注意を行き渡らせているかというとそうではない。自分自身の心を観察できるのは自分ひとりだけだし、これからは行動や言葉を口から発する前にもっと注意深く観察するようにしたい。そうすることで自分が何者であるかを独りでじっくり見つめ直してみよう。意識しないで軽々しく発した言葉で人を傷つけたこともある。もしかしたら、傷つけたことすら気が付いていないこともあったかもしれないね。
今までは“執着”をよく観察しないで手放そうとしていた。反復練習である程度は可能になったと思っているが、もっとその執着の本質をよく観察してから手放すようにしてみよう。
2014年1月5日日曜日
目標
年が明けた。今年は長い戦いが待っている。今までの自分のスタイルには合わないことだが、「頑張らない、妙なやる気を出さない」ということを目標に仕事に取り組もう。やる気を出して、多くの仕事を片付けてきたつもりだが、昨年は体調も崩したし、のめり込めばのめり込むほど、自分の人間性が下劣になっていくような汚染されていくような気がしていた。一生懸命やるのは当たり前で結果を出してナンボと思っていたので、それが出来ない人に対してかなり敵対的で攻撃的な態度を取っていたのだ。少し、一歩いや二歩か三歩引くくらいで、少し引いたスタンスで取り組もうと思う。
己の心身の健康を最優先にして、仕事に穴を開けないというのも大事なことなのかもしれない。立ち止まって考えられるようになった、ということなのか、単に年を取って考え方が老成しつつあるのかもね。
年末年始の帰省では結局、肝心の父とは話が出来なかった。だが、父本人の口から「俺は今後、息子の人生に口を挟まない。」という言質を得ただけでも、昨年11月に手紙を書いて自分の両親に対する思いを伝えたことは“対決”として功を奏したように思う。何でもハッキリさせない方がいいこともあるのかもしれないね。ハッキリさせた瞬間に壊れてしまう関係もあるのだし。それで壊れてしまうような関係なら、無くて結構と思ってしまう自分は冷たい人間だ。
己の心身の健康を最優先にして、仕事に穴を開けないというのも大事なことなのかもしれない。立ち止まって考えられるようになった、ということなのか、単に年を取って考え方が老成しつつあるのかもね。
年末年始の帰省では結局、肝心の父とは話が出来なかった。だが、父本人の口から「俺は今後、息子の人生に口を挟まない。」という言質を得ただけでも、昨年11月に手紙を書いて自分の両親に対する思いを伝えたことは“対決”として功を奏したように思う。何でもハッキリさせない方がいいこともあるのかもしれないね。ハッキリさせた瞬間に壊れてしまう関係もあるのだし。それで壊れてしまうような関係なら、無くて結構と思ってしまう自分は冷たい人間だ。
2013年12月27日金曜日
人には意思がある
人と動物の違いがあるとしたら、それは「意思があるかどうか」とよく言われる。世紀末覇者さんもそう言っていた。 非暴力と微笑みを「武器」として侵略者の略奪に抗わずに争いを避ける、それはもう人ではなく意思を放棄したただの動物だ。
バイクですごく速い先輩もそう言っていた。言われたから、で行動を起こすのは人間ではなくただの動物だ、と。
今は自分の持つ意思の力を信じたい、と思っている。意思こそが人を突き動かす原動力なのだと。何かを決める時、自分の意思で、どういう結末を招くかを覚悟した上で決める。今は、ある目標に向かって努力する、というのが俺の意思。人生に転機が思いがけず訪れることもあるだろう。自分が試されている、と感じるような厳しい瞬間が訪れることもあるだろう。その時に、何かを決めざるを得ない状況になって自分で決める。ただ、その時「逃げ」で道は選びたくないよね。
今の自分がどれほどの人間であるかをよく考えて、それからどんな人間になりたいのかをよく考える。あとはそのギャップを埋めるために努力する。また間違えたりすることもあるかもしれない。ただ、言い訳はしたくない。その為にも意思を持って決めていきたいのだ。そして、今は努力の為に孤独を感じるような状況かもしれない。だけど、俺にとって孤独は別に怖くない。それを孤高に昇華させればいい。
年を重ねるごとに、熱しやすく冷めやすい性格は、熱しにくく冷めやすい、という面倒な性格になってきた。それでも、砂をふるいにかけるようにして、残ったものが本物の意思であり、情熱の原動力だと思う。それが今は確かにある。それをしっかりと握りしめて、悪い結果が待っていることが分かっていても立ち向かおう。そう思った。
ただ、来年はもう少し人とうまく関われるようになりたい。
バイクですごく速い先輩もそう言っていた。言われたから、で行動を起こすのは人間ではなくただの動物だ、と。
今は自分の持つ意思の力を信じたい、と思っている。意思こそが人を突き動かす原動力なのだと。何かを決める時、自分の意思で、どういう結末を招くかを覚悟した上で決める。今は、ある目標に向かって努力する、というのが俺の意思。人生に転機が思いがけず訪れることもあるだろう。自分が試されている、と感じるような厳しい瞬間が訪れることもあるだろう。その時に、何かを決めざるを得ない状況になって自分で決める。ただ、その時「逃げ」で道は選びたくないよね。
今の自分がどれほどの人間であるかをよく考えて、それからどんな人間になりたいのかをよく考える。あとはそのギャップを埋めるために努力する。また間違えたりすることもあるかもしれない。ただ、言い訳はしたくない。その為にも意思を持って決めていきたいのだ。そして、今は努力の為に孤独を感じるような状況かもしれない。だけど、俺にとって孤独は別に怖くない。それを孤高に昇華させればいい。
年を重ねるごとに、熱しやすく冷めやすい性格は、熱しにくく冷めやすい、という面倒な性格になってきた。それでも、砂をふるいにかけるようにして、残ったものが本物の意思であり、情熱の原動力だと思う。それが今は確かにある。それをしっかりと握りしめて、悪い結果が待っていることが分かっていても立ち向かおう。そう思った。
ただ、来年はもう少し人とうまく関われるようになりたい。
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