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2021年11月25日木曜日

抑鬱状態に苛まれる「俺が何したって言うんだよ。」


  10日ほど前から、いや、11月に入ってから少しずつ調子が悪くなってきている。特にこの10日間で加速度的に精神状態が鬱状態に傾いていっている。瞑想やジョギングは夏から続けていて(瞑想は少しサボり気味ではあったが)、これは俺の精神を少しでも健全に保つツールだとも思っていた。ジョギングは純粋に走るのが楽しいと言うのもあったのだけれど、今はあまり走りたいとも思えないし、無理やり着替えて準備運動して嫌々外に出て走り始めて…だいたい5㎞を超えれば頭の中が空っぽになってくる。でもちょっと辛い。瞑想はネガティブな雑念が次々と浮かんできて、煩悩だらけでうまく行かない。

 こういう鬱状態に陥る度に思う。「俺が何したって言うんだよ。」 

問うても誰も答えてはくれないのだが。精神疾患も患者の人それぞれで症状も千差万別でしょう。薬の相性もある。Aという薬がある人にはとてもよく効いても、そのAが俺にもよく効くという保証はどこにもない。また薬を増やしたり減らしたりしたからと言って、それで症状が良くなったり悪くなったりするようなものでもない。人間の精神はそんなデジタルなものじゃない。薬を減らして悪くなっても、じゃあまた増やせばいいじゃん、ということでは解決しないことの方が多い。

この病気さえ患わなければ、俺はもっと色々なことが出来ていただろう。そう思うことがよくある。仕事上の評価は分からないけれど、趣味や好きだったことも出来なくなっているようなことはなかっただろう。今となっては無意味な後悔だけれど、人間関係ももっと繋がりを保っていたかもしれない。友人ももっと残っていて、恋人と結婚したりもしていたかもしれない。

鬱病は罹患する人数が多いせいか、遺伝しない、と言われているが、俺はこれはポリティカルコレクトネス的なものだと思っている。俺の鬱は23歳の春から始まった。しばらくは毎年春になると鬱が悪化していたので、春=死のイメージが付きまとう季節だった。 統合失調症や双極性障害は思春期から青年期に発症する人が多いと聞く。鬱病に関しては40代~50代になって初めて発症する人が多いとも。俺のように青年期に発症した人間はやはり、前者の統合失調症や双極性障害的な発症に近いのではないか?そして、こういう精神疾患はもし子供が出来たら遺伝するのではないか?そんな風に考えている。

23歳から耐えて、29歳でとても大きな強い希死念慮に襲われて精神科病棟に入院。その後、別の心療内科でやっている復職のためのデイケアに通い、実践できそうな心理療法などを教えてもらう。その中でマインドフルネス瞑想が自身の好きなオートバイで走っている時の感覚に近い感覚を得られることから、断続的にではあるけれど続けてきた。精神的に好調な時は運動もするようになった。有酸素運動でストレスを浄化するのだ。しかし、いざ精神的に不調に陥るとこれらのことは役に立たない。薬を飲んで、少しでもよく眠り、体を休め嵐が去るのをひたすらじっと耐えて待つしかない。そして40歳の今もまた鬱の嵐に襲われている。

 そんな嵐の中で独り言ちるのだ。「俺が何したって言うんだよ。」

2021年7月17日土曜日

仕事に生活を与えてもらったが、俺自身は壊されてしまった

 

今日は主治医の元への週に一度の通院日だった。何だか酷く疲れていた。本やテレビは目を向けることもあるけれど、最後まで読んだり見たりする気力が無いことは伝わったと思う。病院に行き薬局で薬を受け取り、駅まで歩く道すがら陽は傾き夕暮れ時だった。仕事を終えた人々とたくさんすれ違う俺の足取りはいつも以上に重かった。

ふと仕事にはまだ戻れない、いやもしかしたらもう戻れないのか…、そんなことを考えた。考えさせるに十分な寂しい夕暮れ時だった。会社に入って仕事をすることでこれまで生活をしていくのに十分な給料をもらい、云わば生活を与えてもらったと思っている。だが、10年ぶりの二度目の休職で、俺自身は完膚なきまでに壊されてしまったこともまた事実だなと思った。

何か泣き笑いのような表情しか出来なくなっていて、持っていた文庫本をもう少しで読み終わりそうなこともあり、病院から駅までの帰り道にある喫茶店に寄って本を最後まで読み終えた。本は遠藤周作の「ただいま浪人」という本だった。20年以上前に買った本だが、今では多分絶版になっていて、活字も現代の小説本よりも小さい。おまけに770頁以上ある。おそらく、再版されるとしたら文字を大きくする都合上、上下巻に分かれるだろう。初めて読んだころ、俺はまだ受験生だったか浪人していた時か(浪人の時だったからこそ買った気もする)、もしくは大学生だったか…。だが20年経って内容は全く覚えておらず読み進めて行くと、些細なことだが、自分に関係あることが少し書いてあった。奇妙な縁だ。

 喫茶店での読書を終え、帰りの電車に体を滑り込ませる。何だか混雑している電車も息苦しさを感じた。ふと電車が大きく揺れて、俺は車内で一人無様に転んだ。足を踏んだ人やぶつかった周りの人に謝罪しつつ、どうしようもない情けなさを感じた。涙が出そうだったが泣けなかった。喉は何かが詰まったかのように感じ、いっそ何か刃物で突き刺してしまいたかった。 

おそらくこの病気に出口は無い。そしてネガティブでいる時間が精神面で健康な人に比べて長い以上、身体面についても何かしらの悪影響を与えるだろう。何もしなくてもあと20年くらいで俺の人生は終わりになるかもしれない。そんなに長生きは出来ないのではないか。そんな気がしている。人生を終わらせるなら、小説の人物のように周りの人との繋がりを泣く泣く断っておかないといけない気がするし、こんなことを考えている以上、病気が治る見込みも薄い気がした。

一度だけのうつ病の発症だったらもしかして、治ったかもしれない。しかし、何とかやり過ごしているうちに人生の半分近くがうつ病を患っていた年数になっている。俺の精神は歪み壊れ、もう元に戻ることは無いだろう。

2021年7月4日日曜日

休んで療養することが決まりお御籤は大凶を引いた -孤独のRunnaway-

 6/17(木)に産業医面談を受ける。産業医と課長、総務と僕の4者でのWEB面談だった。面談では会社の産業医には休職を命じる、ということは出来ない、もしくはしたくない、ということのようで、5月以降の窮状をいくら述べても、それは弱りましたねぇ、というばかりで暖簾に腕押しだった。

しかし、2日後の6/19(土)の診察で、色々とメモにして持っていった症状や困っていることを主治医に全部話し切らないうちに「もう仕事にならないでしょう?思い切って1か月休むように診断書を書くから。」と言われた。10年ぶりの二度目の休職である。10年前、休職が決まった時、僕は自死の危険有りとのことで、任意入院だが精神科の閉鎖病棟への入院が決まった。今回は病院は異なる。現在の主治医は復職してから10年にはならないがずっと診てくれている先生で、めったに休め、とは言わない。休職で患者が受ける働けない期間に受けるデメリットや仕事に戻れなくなることを考慮してのことだと思うが、初めて、全部言わなくていい、もう休んでいいから、と言われた気がする。 

翌週月曜の6/21(月)に在宅勤務でPCを立ち上げ、産業医と課長に向けてメールで状況を報告し、産業医と課長、総務とのWEB面談が決まった。午後からは今の業務を引き継ぐため、引継ぎ会を課長と1時間半程度行い、休みに入ることとなった。引き継ぐ相手が課長しか居ないというのが今のうちの課の窮状をよく表していると思う。僕が居なくなったら誰も引き継げる相手が居ないから課長が引き継ぎ相手なのだ。課長は「1か月で戻ってきてくれることを期待するよ。」と言っていた。この仕事が大変なのは年度末なので、そこで僕が居なかったらおそらく業務は回らないだろう。

6月に入って僕はよく聴いている曲があった。B’zの"孤独のRunnaway"という曲だ。「本当は誰もが愛人探しに出かけたがっている」 という歌詞が耳に残りやすいが、そこではなくてこの曲は何もかも嫌になって失踪してしまった者のことを歌っているのだ。折しも世間では某野球チームのコーチが失踪して世間を騒がせている頃だった。「俺もどこかに消えてしまいたいなぁ…。」なんて思いながらニュースを眺めていた記憶がある。

 

 

B'zの公式の動画はあまり無いので、6月にYoutube見つけて聴いていたアマチュアの方達のリモートセッションの動画を紹介。ボーカルの方の声質も稲葉さんによく似ているし、演奏も皆さん上手で素晴らしい。こんな陰気なブログに引用してしまって申し訳ない。この動画も何度も見て歌詞を口ずさんだなぁ。エレキギターを昔やっていたので、元気になったらこういう曲を弾いてみたい。

 

雨上がりの明け方 とっくにおまえは消えていた

電話もよこさないで

大好きだった女 飲み仲間 順調だった 仕事まで

何もかもほったらかし

何がいやだったの 金なの?マンネリなの?

今頃おまえはどこかで叫んでいる like this!

(中略)

いい迷惑だと みんながあきれ返った後

また普段の生活を続けている

何が大事だったの

出て行ったやつの口グセだけが目の裏で踊る like this!

 

今、仕事で苦しんでいる僕が消えても誰かが迷惑だなぁ、と言いながらきっと仕事は引き受けてくれる。僕がいなくなっても一時は大変かもしれないが長い目で見れば居ても居なくても同じようなものになっていくはずだと。

今回、潰れた理由は簡単だ。課の人的リソースが不足して、僕に課せられる仕事の案件がほど5月から増えた。うちの会社は昨年、合弁会社を興して、課員のうち何割かがそこに出向という形で勤務することとなった為、合弁会社の目的に沿わない意義の仕事は手放すことになった。よって、当時、一緒に仕事をしていた同僚はいなくなり、彼らの持っていた仕事を僕が引き継いだ。仕事上のラインとしては担当が僕で上長は課長ということになった。もともとうちの課は2つに大きく技術分野が分かれていて僕が入社以来、属しているAという分野のグループ、そしてもう一方はBという部の中でも花形のグループがある。入社した時はBグループを志望していたがAグループに配属になり、業務をこなしていく中でそれなりの充実感も感じるようにして15年以上、業務に従事してきた。またどこかでBグループからはAグループは技術的に劣っていると見下されて?いる面も分かってくるようになり、入社当時に抱いていた単純な憧れはとうに無くなっていた。分野が異なるので同じ案件でもAグループとBグループからそれぞれ人を出して対応している。だが、昨年度の人繰りの問題で僕が抱えている案件はずっとやってきたAグループの仕事とBグループの仕事を受け持つことになった。こういう状況ではあったが、昨年度は何とか関係者の人たちの協力もあり乗り切ることが出来た。

今抱えている案件は、いつも年度末に毎年結構な苦労をして成果を報告するためのまとめ作業が発生する。これらを何とか関係者分を含めて、マネージ仕切って乗り切れたが、ここで既に僕のガソリンは尽き掛けていた。5月に課長にちょっと精神的に行き詰っていることを産業医面談の場で話したが、課長と少し2人で話をしよう、と言われ、何故か合弁会社の方で受けきれない新規の案件(A、Bグループで別々にカウントするなら2件)にアサインされることになった。アサインされたばかりで、現実的な大変さはまだほぼ発生していなかったが、今後の業務計画を練りながら、これは今の僕には完遂することが出来ない、と内心、絶望していた。

この10年、産業医との面談がもう当人に問題が無いので卒業となったこともあったけれど、基本的にはずっと受けている。また、課長からは産業医面談を受けている人には悪いけど人事上の好評価は付けられない、と言われたこともある。なので、人事上のことはもう諦めてせめて自分が出来ることで会社の役に立とう、それ以外は(悔しいが諦めて)どうでもいいと思うことにしよう…そう思ってやってきた。また、10年前に休職していて元気が出てきた時に思っていたのは仕事で命を奪われるまで追い込まれるのは馬鹿馬鹿しいということだ。その後もぐるぐるとした希死念慮に苛まれる日々は数年前まで続いていたが、自分自身が中年と言われる年齢に差し掛かってきて精神的な負のエネルギーも落ち着いてきたのか、あまり希死念慮に悩まされることも無くなってきた。こう言ったことがあるので、10年ぶりに二度目の休職になってしまったのは個人的にすごく残念だし、職場に対して思うこともある。おそらく1ヶ月後にもし復職できたとしたら引き継いだ業務をすぐに100%こちらの手元に返されるだろう。活字も頭に入らないくらいに弱り切っていた6月下旬に比べると少し本も読めるようになってテレビも見られるようになってきたが、今の自分にはまた元の仕事量を振られるのが怖い。

余談だが、休みが決まった後にお御籤を何の気なしに引いてみた。結果は大凶。初めて引き当てたが、「やっぱりな」という気分の方が強くて思わず笑ってしまった。


お御籤に書いていることを文字にしておこう。

天の下 国原くらし み空ゆく

月の光は さやかなれども

ふして見れば山野は暗く。仰げば真如の月が照っている。

その接し会ったところに立っている自分を見失ってはならぬ。

此処で静かに思慮を深め目標に向って一歩を進めなさい。

○願望 急には思う様にはならぬ

○縁談 本人同士の意志の通じ方が足りぬ

○交際 親切だと思い込むといけない

○産児 丈夫な児が生まれる

○病気 回復がおくれる

○転居 やめた方がいい

○事業 人の口車に乗るな

○試験 目上の人の意見に従え

産児以外はいい項目が無いように思えるが、「○病気:回復が遅れる」が個人的には一番ぐさっと来た。

2021年6月12日土曜日

体調を崩してしまった -Not even you-

始まりはゴールデンウィーク明け少し経ってからだった。いや、年度末の忙しさの3月を何とか乗り切っている最中からだろうか…。病気までは行かないけれど、病的になっていくまでのグラデーションの中にいた。そこからは段々とぬかるみに嵌るように足が取られ始めて、気が付いたら腰まで泥沼に浸かっているといういつものパターンだ。この辺りになってくると、焦燥感も強いし、ここ年単位で感じないようになっていた希死念慮も出てくる。正直、苦しい。
俺が勤めている会社は1年前のコロナ禍に入ったところから、在宅勤務になった。独居で暮らしている俺のような人間には、仕事で取るコミュニケーションを除けば、人と会話することもほとんどない。昨年度から一緒に仕事していた同僚も別案件に取られ、残された俺は去っていった同僚の仕事を引き受け、何とかやってきたが、相談できる人間はいない状態になっていた。結局は一人なのである。
 
毎月、上司立会の下、産業医面談も受けている。このご時世なのでWeb会議でである。3月辺りから体調の不調は訴えていた。もうこれはダメかな…、と思い5月の面談で、「すみません、ちょっともう無理そうです。」 と切り出した。孤独なら出社してみてもいい、という助言ももらったけれど…。出社してもフロアにはごく一部の人しか居ないんだよな。結局、誰とも会話しないで退勤する、ということになっていた。ただ、上司と出社時に顔を合わせたので、ちょっと個別に話をしようか、ということになって、ここで新たな案件を任されることになった。本来やるはずだった人達が多忙を極めていてとても対応できないこと、また、俺の得意分野だから、ということがアサインの理由だった。この後、更にもう1件、案件のアサインがあったのだが…。ちょっと無理だなぁ、という気持ちが今は強い。

休職するとなると、独居の俺のような人間は、一人じゃ何をしでかすか分からない(つまり自殺とかされても困る)ということで、実家がある場合は帰れ、ということを産業医から命じられるそうだ。ただ、俺の今住んでいる場所は緊急事態宣言下である訳で…。田舎に帰って老いた両親に感染させるようなことがあっても、と言うのは本音でもあるが建前の部分もある。田舎ゆえにいい年をした男が昼間から働きもせずに散歩なぞしていては、きっと噂が経つのだ。
 
少し前に母から電話で聞いた。俺が10年前に鬱病で休職していたことが人伝に伝わってきたらしい。俺は地元の誰かに話した記憶は無い…。もしかしたら、当時やっていた何かしらのSNSに何か書いたのかもしれないが…。煩わしくなってアカウントごと消去してしまった(まさにメンヘラ的行動である)。よくは覚えていないが、何かしらの鬱で休んでいることを書いた当時繋がっていた人が地元で、誰かに話した。それが人から人へ伝わり…ということなのだろうか。俺は高校を卒業するまで地元にいた。今となっては何の自慢にもならないが、そこそこの優等生で通っていた。そんな優等生が脆い精神を病んで働けなくなった、悪意があるわけではない、ただ少し可哀相にね、なんて言いながら、どこかで嘲るような気持ちも込められて、それが回りまわって、うちの両親の元にそんな話を直接してくる人がいた、という事なのかもしれない。地元に帰れば、また悪評が立つな。
 
高校生の頃から俺には多少、神経質なところもあった。最近、ふと当時よく聴いていたClawfingerというアーティストの曲をまた聴き始めた。20年前は目新しかったラップメタルだ。歌詞は、「俺がするように俺のことを愛してくれる者はいない、君でさえも」、「誰も俺が自分にするようには俺のことを必要としない、君でさえも」、そんな殺伐とした歌詞だったが、当時の俺はそんな自己責任論にも近い歌詞を好んで聴き、そして英語の歌詞も覚えてよく歌っていた。興味があったら以下のリンクから聴いてみて欲しい。歌詞もついているから。曲はClawfingerで"Not even you"。

2018年10月10日水曜日

鬱を治すために(うつ病の末路)

ある出来事が切欠になって、うつ病の末路について考えている。病院で聞く説明では、薬物療法による治療を続けて回復、その後、薬を飲んでいれば普通の人と変わらない状態を維持(寛解)、再発防止のために薬物療法を継続、という流れで、薬を飲まなくても再発しなくなる「完治」は無い。「うつは心の風邪」と言われるようになって久しいが、症状の重さから「うつは心の癌」という人もいる。

さて、俺自身のことに話を戻そう。盆明けからの不調で先月の半ばについに体調を崩して1週間ほど会社を休むことになった。この2年ほど、何とかではあるけれど、病気とうまく付き合ってきている、と思っていただけに落胆は大きかった。身を置いてる環境が悪いのではないか?とも思い、仕事を変えるべきか、とも考えた。そのために資格を取る勉強をするべきか、とも考え、これは少し手を付けてたが、いかんせん精神の不調を抱えたままでは長い時間の集中力は期待できず、今は止めている。だが、一番の大きな問題は何だ?うつ病を抱えて生きていることだ。これでダメだったら人生もう諦めよう、それくらいの覚悟を以て、もう一度、最後まで足掻いてみようと思う。病院の「薬物療法」だけでなく、「心理療法」の両輪でお互いに足りないところを補えば、「寛解」だけでなく「完治」も見えてくるのではないかと。

「心理療法」も結局は自分で自分の精神の面倒を見るしかない。カウンセリングも悪くは無いと思うし、今はマインドフルネス瞑想もだいぶ広まってきているので、手掛けているところも多いだろう。ただ、毎日、やるという意味では結局、自分で「実践」するしかないのではないかと思う。朝晩に最低15分ずつマインドフルネス瞑想をしよう。以前にやり込んでいた時は、集中力がぐんと高まるのを感じたが、そこで無理をせず、実践を怠らず、半年とか1年単位で続けていこうと思う。

人に教えを乞う場合は、「途中で止められない」効果はあると思う。瞑想が毎日の習い性になるまで続けて生活の一部になれば、自ずと瞑想のレベルは深くなり、良い効果をもたらすのではないか。ただ、俺自身はどちらかというと宗教アレルギーに近い。岩波文庫から出ているブッダの言葉、なんかを読むことはあるが、マインドフルネス瞑想は仏教のエッセンスを宗教色を薄めたものなので、誰かに教えを乞うには、細心の注意が必要だと思うからだ。そんな訳で、しばらくは、個人でマインドフルネス瞑想の実践を進めていきたい。

2018年9月5日水曜日

もう拷問はキツいよ…

タイトルはドンケツ24巻の槇原という人物のセリフ。敵の手に落ちて拷問をされて口を割らずに逃げ出そうとするが、再び捕まったら自決を覚悟するシーンでのセリフだ。さしずめ俺にとっては、「もう(鬱病による)拷問はキツいよ…」と言ったところか。良くなったとも言えなかったが、低調ながらも安定を得ていたところに鬱の強烈な痛打。もう堪えられない。


ドンケツ 第24巻 たーし | 少年画報社

十五夜組と野江谷の思惑により、月輪会会長宮本は逮捕され、混乱を極める。脱会者が相次ぐ中、孤月、華月、朔組は会長のため「はぐれ月」となり抗争激化。桃次郎がアジトをつきとめ、ロケマサ、速水、ゲンコが遂に怒りのカチコミ!立ち読みはこちら
この日も限界まで伸びた鉄に軽い一撃を加えるとポキンと折れるかのように、同じ部署の年配の方からの丸投げ指示のメールを見て心が折れた。もちろん、これまで彼と仕事をしていく上でこちらが、後にも先にも立ち回り、うまく行くようにお膳立てをして尽くしてきた。本当にツイてない。

俺も消えたほうがよさそう
ここ3週間ばかり確かに調子を崩しつつあった。ただ、いつものことだ、と軽く考えていたし、薬を飲みながら後は時間の経過と共にある程度は復調するものだと思っていた。しかし、俺の予想を裏切り、鬱の波はますます俺自身を蝕み、気が付けばもう引き返せないところまで来ていた。誰か俺を殺してくれ…、そう念じる日々が続いた。電車に乗る時も電光掲示板で人身事故の表示を見かければ自分自身の死に結びつけてしまう。いつも正座して後ろ手に縛られた状態で俯き、後ろ首に刀を当てられて打ち首になる自分を想像してしまう。そんな最悪なイメージと格闘しているうちに耐えられない頭痛と食欲不振、早朝覚醒、不眠を抱えるようになった。頭痛はまるで脳が機能不全になっていくのに壊れていくことを想起させるような痛みだ。これはもう拷問だ。

いつまで堪えればいいのか…それとも堪えようと抗う行為自体が無駄なのか。右手に抗鬱剤を、左手に瞑想を持って挑んでも叩き潰されるばかり。

あれほどまでになかなか減らなかった体重はスルスル?とまではいかないけれど、89㎏→85.5㎏ほどへ減ったので4.5㎏減。最大値と最小値の差なので、実際は3㎏くらいの減り幅だとは思うけれど。食欲もあまり無いので、ダイエットが捗る。顔も少し肉が落ちてきた気がする。これはこのまま続けようか。


いつまでこんな苦しい状態が続くんだろう、と思う一方で、俺は今、罰を受けているのでこれで刑期を消化しなければいけないからこのままでいい、と訳の分からないことを考えている自分もいる。救われたいか、というとそういう他力本願なことじゃ抜け出せないと思うんだよね。

2018年7月20日金曜日

何でもかんでもマインドフルネスで解決できるわけではない

以前に休職した時に、復職のデイケアでマインドフルネスを学んで、ずっとではないけれど心を落ち着けるツールとして実行してきた。そんな俺からしても、最近、世間はマインドフルネス瞑想を持ち上げ過ぎなのでは?と感じる。本屋へ行けば、マインドフルネス関連の書籍が精神世界、スピリチュアルの棚の辺りに平積み。あげくはマインドフルネス瞑想を助ける家電として、瞑想中の動きをチェックしてくれるものまで開発されているらしい。ただ、ちょっと待ってくれ、と思う。もともとマインドフルネス瞑想の起源を辿れば、上座部仏教のヴィパッサナー瞑想のはずだ。心に湧き上がってくる煩悩を一つ一つ丁寧に潰し、過去へ行ったり未来のことをあれこれ考えてしまう人間の心を「今この瞬間」に固定する、そういう訓練だ。もっと言ってしまえば悟る為の訓練の一環でもある。

マインドフルネスな瞑想は仕事のモチベーションを下げる可能性が示される

by Thư Anh「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること」という意味合いのマインドフルネスはGoogleが研修に取り入れていることもあり知名

そういうわけで、上記の記事のようにマインドフルネス瞑想を熱心にやった結果、仕事のモチベーションが下がるというのはある意味、当然なことだと思う。だって、仕事でアウトプットや成果を出していくというのはある種、人間の欲求に沿ってるものだからだ。現状をありのままに捉え、それを受け入れる訓練を続けていれば、それはこの記事のようになると少しばかり瞑想をかじった初心者の俺は思う。

ただ、俺の場合は鬱になって、過去の自分のこれまでの来し方や、未来の迫りくる不安から少しだけ解放してくれる便利なツールだったので、マインドフルネス瞑想をやってきたに過ぎない。言ってしまえば、悟りを得る修練の一環と言っても、そう簡単に悟れるわけもないし、ブッダですら梵天勧請の話にもあるように、仏教の教えを人々に広めてと頼まれるまで、これは普通に人々に受け入れられるものではない、繊細で微妙なものだ、と思っていたという。

 善も悪も失うこと|ニー仏|note

ミャンマーまでわざわざ行って、仏教のことを学ぶために瞑想の実践をしている人が言うくらいなので、おそらく瞑想を続けても執着から少しずつ解放はされていくのかもしれないが、良い人になる為の修練ではないし、ましてや、生き易くなる為の訓練でもないのかもしれない。(もしかしたら、俗世に居づらくなって出家せざるを得ないレベルまで行ってしまうかもしれないし。)

つらつらと書いてしまったけれど、俺自身はストレスから解放されるためのツールくらいの捉え方であって、自分に効果があったからと言って、他の人に安易に勧める気にはなれない。やっぱり、非常に繊細で微妙なものだからと思うからだ。やりたいと思う人はブームが来る前に出た本でオリジナルに近そうなものを読んだり、場合によっては鎌倉あたりのお寺で早朝にやってる座禅の会みたいなのに参加してくるだけでもいいと思う。疑問に思う人には勧めない。欲や執着があるのも人間らしい特色だと思うし、これらを削いでいくことで人生がつまらないと思うようになる人だっているかもしれないからだ。ただ、俺自身は、これからも時間のある時は瞑想はしようと思う。

2018年6月30日土曜日

薬を減らせる医師と足してしまう医師

今日、診察を受けてきて処方が少し変わった。二剤あるうちの片方の量を少しだけ減らしてもらったのだ。前回の診察の時はもう一方の薬を減らしてもらったところ調子が悪くなり、処方が変わってから3日ほどで気持ちが辛くなってきたので元の処方量に戻して飲んでた。

今のホットな医療ネタは減薬、断薬である。
「一生薬を飲み続けなければならない」人などほとんどいない(上原 善広)


以前に自己流で断薬して痛い目にあってるので、俺自身は減薬は試みてももう断薬はしないと思う。ただ、症状が悪化した時に「今までの処方を見直して抜本的に変えましょう。」という医師は自分で考えられる能力がある人であると思っている。反対に「今までの処方にその悪い影響を打ち消す薬を足しましょう。」という医師はマニュアルを信じすぎている気がする。

就職を機に今住んでいる都市に来るまでは別の都市で治療を受けていて、その時の医師は副作用が出たら副作用止めの薬を追加するタイプの処方をする人だった。確かどんどん薬は増えて行って一時期は統合失調症の人が飲む薬も出てたかもしれない。今では鬱病に処方出来なくなったリタリンとベゲタミンBも処方されて飲んでいた。その時のメインの抗うつ薬はトリプタノールで、副作用で尿が出にくいと言ったらウブレチドという薬が出た。リタリンはトリプタノールを最大容量まで処方しても俺の体の代謝が良すぎて効きが悪かったので、代謝を抑えて血中濃度を上げるためだと言われたかな。レボトミンやらコントミンやらも飲んでて割りと訳が分からない状態になってたと思う。参考までに当時飲んでいた処方を覚えている限り記す。うろ覚えだけどこんな感じだったと思う。とにかく眠くて仕方なかった。

・トリプタノール 200㎎(8錠)
・ロヒプノール1㎎
・ベゲタミンB2錠
・コントミン1錠
・ウブレチド3錠
・レボトミン3錠
・リタリン1錠

この時は病歴も浅くて割りとすっきり治った気がしてもう病院に行きたくなくて薬は全部止めてしまった。しばらくはトレドミンの最低容量をもらってお守り的にしのいでた。

就職してまた再発したのでトリプタノールメインで治療を受けていたが、そこの病院は一年経つと担当の医師が変わることが多くて、医師が交代してだいたい半年くらいは薬も全く変わらないことが多かった。そりゃ自分が処方変えて患者の病状が悪化したら嫌だもんな。気持ちは分かるよ。その後、4年ほど通院を受け続けて、閉鎖病棟に入院するレベルまで病気と仕事で追い詰められてた時の医師の先生はずっとトリプタノールだったのをガラッと変えてくれた。最初はアナフラニールにして、俺は日中も眠りこけるようになってしまって失敗だったかもしれないが、入院した時に三環系抗うつ薬とはすっぱり手を切った。今の処方もその時のものがベースだ。

・サインバルタ60mg
・リフレックス30㎎
・メイラックス1錠

今はこのサインバルタを60㎎だったのを50㎎に減らしてもらった。離脱症状が無ければ今後は40㎎に減らしてもらいたい。SSRIはあまり飲んだことが無いけれど、SNRIはばっちり尾籠な話だけれど、泌尿器に副作用がトイレで用を足すときに尿が切れない、と診察で話したら減らしてもらえた。眠くなる、という副作用は無い代わりに別の副作用がある気がするのがSNRI/SSRIなんじゃないかと思う。

リフレックスは眠気もくれるが俺にアッパーな気分を与えてくれる。多分、これだけでは足りないのでサインバルタを合わせている。こちらは朝飲んで効いてるのかどうかよく分からないけど、止める時は耳鳴りがしたりめまいや冷や汗なんかでずいぶんと体が依存してるのを分からせてくれる薬だったので、縁は切れないだろう。出来れば、少しずつ良い精神状態を維持しつつ両方とも様子を見ながら少しずつ減らしていければいいけどね。

2018年5月18日金曜日

CTと胃カメラの検査結果

膵臓が悪い畏れがある、と脅されてCT検査を受けてきた。最初にかかったクリニックでは対応出来ないので大きな病院を紹介してもらって放射線科で造影剤を入れたCT検査をする。血管から造影剤が入った瞬間に体が熱くなる。血流に沿ってその熱が全身に渡っていく不思議な感覚。この日は検査のみでCD-ROM?を渡されて最初にかかったクリニックの医師に渡して下さい、と言われ帰宅。開封してもいけないと言われたので2日後にクリニックに行くまでモヤモヤとした心境で過ごす。

2日後、今度は最初にかかったクリニックでCD-ROMの中身を見てもらうことと胃カメラによる検査。事前の喉の麻酔や安定剤の処置もよく効いて、先生の腕も良いのかあまり苦しくなくて済む。

結果から言うとCTも胃カメラも健康そのものだった。胃壁についてはモニターに映し出されていたけど、どこにもひきつれや潰瘍もないように見えたし事実綺麗なものです、とお褒めの言葉を頂いてしまった。CTもどこにも異常は無いので、あと3年は撮らなくて大丈夫だし少なくとも40までは大病はしないでしょう、と。

「では、何故あんなに胃や背中が痛んでいたのでしょうか?」と質問してみる。「お疲れだったんじゃございませんか。」と先生。ふむ、つまり精神的なものか。そう言うわけで追加の薬も無く、また痛んだらおいで、と言われ病院を後にする。コーヒーやアルコールを少し控えるようにすれば痛まないし、原因が分かれば避ければいい。山無し落ち無し意味なし?そんな感じだった。

2018年4月28日土曜日

胃潰瘍?急性膵炎?それとも・・・

前回の診察から1週間が経過し、検査結果を聞きに再び診察を受けてきた。胃潰瘍もしくは急性膵炎が疑われるということで、ピロリ菌がいるかどうか、それと膵液の異常が無いかを血液検査で調べてもらってたのだ。結果から言うと両方とも問題は無かった。

・ピロリ菌の抗体検査:陰性
・消化酵素のアミラーゼ:正常値
・肝機能:問題なし
・その他の数値も正常で問題なし

すぐ分かる検査で引っかかる原因が無いことで痛みの原因を探るために精密検査となった。造影剤を入れて膵臓のCT撮影と胃カメラを5月の連休明けにやることになった。膵臓のアミラーゼが正常でも痛みがある場合は膵癌の可能性も捨てきれないそうで…。(重めの胃炎でしか無い気もするけど)

病院の帰り道に膵癌について調べてみた。最近だと星野仙一が膵癌で亡くなってる。罹患した患者数=死亡者数と言われるくらい死亡率が高い病気だそうだ。

気がつくと俺の手は小刻みに震えていた。あんなに鬱で苦しんで死にたいと願っていたのに人間とは勝手な生き物だ。

2018年4月23日月曜日

春は調子が悪い

寒かった冬も終わり、急に気温が上がったりまた下がったり、と春先は体が気温の変化に付いていけない。春先はメンタルだけでなく体の調子もおかしくなることが多い。今年も昨年度末までの疲れが祟ったのか、鳩尾から背中へ突き抜ける痛みで苦しんでいる。多分、重めの胃炎かもしかしたら胃潰瘍か…。先日あまりにも背中が痛むので仕事を早退して病院に行ってきた。ピロリ菌がいなければ胃潰瘍にはならないということらしく、まずは検査で確かめましょう、とドクター。背中の位置としては胃の裏側に膵臓があるのでそれも検査で診ましょう、と。血液検査で採血をしてもらって1週間後にまた来て下さい、とのことだった。

こう書くと診察もあっという間に終わったように聞こえるかもしれないけど、触診やこちらの症状を詳しく聞き取ってくれて、その上での診断である。病院の数は多いけれど、なかなか信頼できる雰囲気の医師と巡り会うことはないので、一旦、ここだと思ったら俺はあまり病院を変えたくない。検査結果ももっと早く出るクリニックもあるだろうけど、そういうことよりも医師の腕があるところがいいな、と。

話をある程度じっくり聞いてもらうだけでも患者としては落ち着くのだ。しかし、薬を飲んでもやはり食べられるものが少なくなり、白米も胃もたれするので、素麺を少しだけ茹でて食べている。朝ごはんを食べ過ぎて吐くのもそのまま胃袋に入れたままにも出来ず、朝の出勤前に目を白黒させたこともあったけれど、調子の悪いときはあまり食べず空腹の時間を長くしている方が楽な気がする。検査結果は明日出るので病院に行くつもりだが、胃潰瘍だったらまだいい方かもね。急性膵炎とかなら、もう酒は飲めないな。

2018年4月6日金曜日

産業医面談

就業制限がかかっているので毎月、産業医面談を受けている。自分の職場の上司と総務の人達も立ち会うので、面談と言っても1対4くらいの構図になる。

何とかしてこの産業医面談を受け続けなくてはいけない現状を変えたいと思うようになった。と言うのもいい年をして、何時に寝て何時に起きて休みの日は何をしているか、と細かく問われるのにうんざりしてきたのだ。(ケアしてもらう為の面談を用意してもらって何て言い草だと思われそうだし、そこは申し訳ないとは思う。ただ、そっちの方向じゃないんだよなぁ…と思うだけで。)例えば、「休みの日に何していますか?」という質問に「疲れてぐったりしています。」と応えるとおそらく降級点がつけられる。「朝起きてから家出るまで何をしていますか?」とか、毎朝やってることは変わらないとは思うけどあんまり覚えていないのと、何か生活の一部を覗き見られるようで気恥ずかしくて応えるのも嫌になるとか…。まぁ、そこを突き詰めても病気は良くならないんだけどなぁ、と思うのだよね。やらなきゃいけない仕事は結局、やらなきゃいけないわけで。そういう方をこれならもう少し出来そうです、とか、他の同僚みたいにフルに終電までは頑張れないけど、ここの知識なら役に立てるから臨機応変に使ってくれ、とかそういう議論が出来たらいいなぁ、と思う。

休職から復職した人がどれだけ面談を受け続ける必要があるかを調べてみたところ、どうも3ヶ月から6ヶ月が目安のようだ。対して一旦、制限が解除されたこともあったけれど、今はもう数年単位で面談を受け続けている。

面談で重視されるようなのはどうやら生活リズムらしい。あんまり画一的にしても個々人で症状も薬も違うのだからパターン化は出来ない、とも思うがおそらくここを問題ないと面談で証明出来れば制限も無くなり面談を受け続ける必要も無くなるのではないか、と考えた。

勤怠を安定させること、毎日決まった時間に出退勤するのが一番でそれ以上のことは多分求められない。

症状が良かろうが悪かろうが、それはあんまり重視されないようなのでもう割りきって行くしかない。

2018年3月22日木曜日

間に合わなかったらごめんな。

ここ1か月ばかり、仕事はただ耐えるのみ、体調は悪くなっても崩すわけにはいかないので(メンタルでそういう努力は今までうまくいった試しがないけれども。)、注意はしている。また、老いたとは言えまだ両親も健在。うつ病の症状を聞かれたら答えるけれども、「頼むから自殺だけはしないでくれよ。」と言われる。しかしながら、うつ病の全てが自殺既遂してしまう訳ではないけれども、それでも何とか踏ん張っているけれども、でも治療なり休息を適切に取って症状の悪化を防ぐなりの努力が「間に合わなかったらごめんな。」と思う。

2年前にはフラフラと、それまで何度かバイクで訪れたことのある町にローカル線に乗り徒歩で行った。懐かしい景色を見ながらこれが人生最後のちょっとした観光だな、と独り言ちた記憶。あの日は日射しは柔らかかったような…。誰も俺を知っている人はいない小さな町を歩き回り乗り物がないと動き回るのはしんどいな、と思いながらも、結局、ヘタレてそのまま帰りもローカル線で帰ってきたのだった。途中にある城も見たかったけど、修復中で見られなかったんだよね。

その後、俺は地元に強制送還になった。死なれては困るから独り者の俺にはそうしてもらうしか会社的には無いのは分かるが、へとへとに疲れ切っている時の移動は堪える…。

次に同じような死の誘いが来たら…、もう諦めて死ねたらいいんだがな。色々頑張ってきたつもりだったけれど、何も成し遂げられなかったし、自分の家族を作ることも出来なかった。何も残すことが出来ない人生だった。夢も見た気もするけれど、全部気のせいだったよ。


2018年3月19日月曜日

薬で強化していくと別のところが壊れる

年度末締めの仕事をこなしていて感じたこと。幸いなことにメンタルはまだギリギリ均衡を保っているが(それでもだいぶキツいけど)、職場にいる間に頭が痛くなったり気持ち悪くなったので職場にある血圧計で何気なく血圧を測ってみた。結果、上が145mmHg~165mmHgというなかなかの数値を出してる。今までの健診で高血圧を指摘されたこともなくて、職場で緊張しているが故の数値だとは思う。

抗うつ薬を飲んでメンタルを強化して、昨年は耳が壊れ突発性難聴になり、今年は耳は何ともないけど高血圧で体にダメージが出てる。気持ち悪くなるくらいならいいけれど、3日くらい頭が痛いこともある。ここ3年は同じような業態の仕事をしていて2年前はもう駄目かと思うところまで追い込まれていた。今回も仕事の区切りがついたと気を緩めたら同じようなことになりそう。ソフトランディングを目指したい。

仕事は何のためだろう。よく自分が仕事が出来ると思い込んで周りの出来なさを嘆く人もいるけれど、少なくとも僕の仕事でそれは出来る人はいない。難度も高く、どれだけ頑張っても出来ないことの方が多い。顧客も割と無理を言う。辛さに耐えきれず辞めていく人もかなり多い。みんな僕から見たら優秀で有能な人ばかりなのに。そんな環境の中で、今年度の仕事は、自分だけでなく多くの人が作り上げた作業をより合わせて一つの成果にすることだった。隅々まで1人の人間が作ったかのような神経の通った仕事にしよう、と思って頑張ったけれど、やっぱり通して見るとやった人が違えばムラも出来る。なかなか難しい。

2017年12月22日金曜日

薬が効いてきた

8月に親戚が亡くなってから、どこか足がもつれるように鬱状態も酷くなっていき、9月、10月、11月と陰鬱な気持ちで過ごす日々だった。これは、抗うつ剤の副作用を訴えた僕の希望を主治医が聞き入れて、減薬してくれたのもある。サインバルタはMAXの60mgだが、リフレックスは30mg(2錠)だったものを、減薬して22.5mg(1.5錠)になっていた。

リフレックスは飲むと眠気が強く出るのと、眠りに就くまで、異常な食欲が出る。飲んですぐに寝てしまうのが一番いいのだが、朝まで薬が残ることも多いので、22時頃など就寝より少し早めに飲んで家事などをしたりしながら眠くなるのを待つことが多い。そういうわけで、減薬と相成ったわけだがやはり自分の体には少し量が足りなかったようだ。16日の診察でリフレックスについては再び30mg(2錠)へ処方量が戻った。 サインバルタはそのまま。

それから1週間近く経って、薬が効いてかなりつらい気持ちが緩和されてきたように思う。2か月くらい抑うつが強くて希死念慮も強くて時間を無駄にしたような気分になったが、もしかしてこれは主治医の作戦だったのでは、とも思う。敢えて、1.5錠の低い容量で体を慣らしておいてから2錠へ増やすことで増薬した効果を狙ったのではなかろうか。かつてリフレックスを3錠へ増やしたことがあったが、やる気、気力は出てきたものの短気になった記憶がある。それは主治医へも診察で伝えていたのでリフレックスを3錠へ増やすことの弊害をしっかり把握した上でのことだったのではないかと。

いずれにしろ、年末ではあるがようやく身の回りのことなどをする気力、仕事も少し前向きに頑張れる気力が出てきたのは良かった。頑張りすぎて燃え尽きることがないように慎重にペースをあげていこうと思っている。

2017年11月19日日曜日

不調になってからそろそろ3か月

お盆の辺りに闘病中だった親戚が亡くなった。ここのところ、1年ごとに親しい人を亡くし続けてその度に、精神的に落ち込み、うつ病も悪化する。今回も8月の下旬から不調が始まり、だんだんと仕事の資料等が頭に入ってこなくなり、だけど、何とか形にはせねばならずで、それを時間で補っている。気が付けばもう11月も後半。鬱の期間はきっかけと呼べるほどのことではないかもしれないけれど、気温差、身近な人の死(喪失体験)、または季節的なものなどいろいろ複合的なことがトリガーになって始まるようだ。

主治医の診察で、服用薬はサインバルタ60㎎は変わらずだが、リフレックスは30㎎(2錠)から22.5㎎(1.5錠)へ減薬。てっきりまた45㎎(3錠)まで増薬かな?と思っていたので少し驚いた。先月は微熱が常に37.5℃くらいある状態が続いていたが、どうも風邪でも無いらしい。自律神経失調症なのでは?と主治医にも言われた。耳鼻科で診てもらっても熱以外は異常なしとのことで、時期ももう11月なのでついでにインフルエンザ予防接種を受けてきた。

ほかには産業医の面談を受けて、調子も今ひとつだね、と言われたり。調子の浮き沈みもあったけど3、4年前は部署も違ったのもあったけど、たくさんの人とネゴったりしながら、仕事もやればやるだけ進んで形になっていく感じがあったのになぁ。今の状況はあまりにも惨め。

死んでいく人がいる中で、自分自身もそんなに長生きしなくていいな(5年先にはもう居なくなっててもいい、くらいの感覚)、と思っているけれど、何だかんだで20年経っても同じようなことをボヤいてそうな気もしてそれもまた恐ろしいのだ。

紅葉も綺麗な時期になりました

2017年9月17日日曜日

減量中の憂鬱

薬の副作用もあって、僕は太りやすい。普通に食べているだけのつもりだったが、体重が今までなったこともないような重さになってしまって、周りからも「どんどん体格が立派になって。」とか「どうしちゃったの?」とか「餌を与えないでww」とか言われて苦痛だった。自分が写った写真を見るのも苦痛。顎はまだ二重にまではなっていないが、なりつつあるし、耳の下から首にかけて肉がついた。僕の身長は180㎝。4年くらい前に86㎏から11㎏くらい減量して75㎏になったのだけれど、そこから15㎏以上リバウンドしてしまった。、体重は91㎏を超えていた。3月くらいから少し気を付けるようになり、盆明けからは更に節制するようになったおかげで、今朝の時点で85.5㎏まで落ちた。

ここ1ヶ月の体重変化

減量することで、健康な人もイライラしたり、つい耐えきれなくなってドカ食いすることはあると思うのだが、今回の僕はどんどん憂鬱になり、活動量も落ちて会社へは何とか行っているけれど、精神状態はかなり抑うつが強く非常に悪い。ルールとして1日1食(だいたいは昼に社食で食べる)はきちんと食べる(その代わり、朝は食べなくてもOK、夜は置き換え食+お腹が減ったら果物を食べる)とやってきたのだけれど、昼時になっても腹が減らなくて食欲が湧かないことが出てきた。なかなか目標値とする86㎏を切れずに、少しイライラしていたのだが、筋トレをする元気も無くなっていたからかもしれない。久しぶりに筋トレをしてみたが筋力もかなり落ちていた。少し筋トレをやりつつ、プロテインも摂って、減量を続けるのが良さそう。

考えが憂鬱になり、塞ぎこんで趣味を通じて知り合った友人から趣味の話を聞くのも苦痛な状況。当然、自分でその趣味をやることは今はもうない。優しさを持って、聞くくらいの度量は持ち合わせた方がいいのかもしれないが…。毎日が辛い。

2017年5月3日水曜日

メニエールになってしまった

2月からなのだけど最初は低音障害型感音正難聴になってしまい、更に症状が進んでどうもメニエール病になったようだ。

調子が良い日は何でもないのだが、聞こえが悪くなってくると耳道が中から押されるような圧迫感のある痛みとめまいが発生する。幸い、そこまで症状は重くない。週2回30分以上の有酸素運動で毛細血管を鍛えることが良いと運動療法を勧められた。


最初にかかったクリニックでは内耳の蝸牛の中のリンパ液の排出がうまくいかず蝸牛が浮腫んでしまってる為に聞こえがおかしくなったり、蝸牛から前庭部へ浮腫が広がるとメニエールになる、という説明を受けた。浮腫を取るために浸透型の利尿剤のイソバイドを処方された。味はグレープフルーツの苦味を凝縮したような感じで美味しくはないが飲めなくもないという感じ。

運動療法もなかなか週2のノルマをこなせないが運動すれば調子は良くなるし、しなければ悪化するというある種の分かりやすさはある。完治はしないのだと思うが症状を抑える程度のことは出来そうだ。

2017年2月25日土曜日

低音障害型感音性難聴 - イソバイドで様子見

前回の診察では、イソバイドという利尿剤を飲むことで内耳の中の内リンパ液の浮腫みを取ることを目的とした治療が行われた。3日ほど経ったらまた来てください、と言われたこともあったし、土曜で休みだったのでまた近所の耳鼻科に。この時期はインフルエンザと花粉症の患者さんで待合室はごった返していて、気を付けないと自分自身がインフルエンザに罹患しそう。

また電話BOXみたいな聴力検査ブースに入って聴力検査をする。狭いのと中に空調が効いてるわけではないのでだんだん自分の発する体温で暑くなってくる。あとは外で小さな子供の患者さんとかは耳鼻科で鼻の中、耳の中を器具を入れられて診察を受けると当然、泣く訳で…。暑いのとブース外からの音で若干集中力を欠いた検査となった。


前回と比べると左右差があまり無くなってる?良いことなのだろうか。悪い右耳は少し違和感がまだあるのだが。。。医師の先生はイソバイドの効果が認められたということ、また、ステロイドを使うよりもイソバイドの方が安全という理由で、今回は1箱処方してくれた。



他の同じ薬を飲んでいる人のブログなんかでも言われているけれど、美味しくはない。シロップ状だからこれだけの数だと結構重いし。味は個人的にはグレープフルーツの苦味をギュッと濃縮したような感じがする。だから、薬剤師さんにはグレープフルーツジュースで割って飲むと(薄まって)飲みやすい、と言われたのだろうか。

発症から48時間が勝負!みたいに言われていたけれどとっくにそれ以上の時間が経っている訳で、どうしたものかなぁ、という感じ。職場にも言わないと突然調子悪くて休みます、じゃ相手も困ってしまうだろうし。。。

2017年2月22日水曜日

低音障害型感音性難聴というのになりました

ある日の仕事中、年度末への成果を見据えてなかなか業務は忙しくなっていた。上司と話している最中に上司のいない側の右耳が突然“キーン”となって何となく耳栓をしたような感じで聞こえが悪くなってしまった。何だこれ?と思うも翌日も良くならず。そう言えば友人で突発性難聴になった人がいた、とか思い出しつつ、あれこれ検索して調べてみる。

急性低音障害型感音難聴の改善方法を知ろう

代表的な記事としてリンクを貼ってみたけど、発症から2日間(48時間)以内に治療を受けることが大切らしい。耳にとって悪い状態が続くと音を感じ取る有毛細胞というのが死んでいくから、ということらしい。

会社を夕方で早退して、自宅近くの耳鼻咽喉科に駆け込む。花粉症やら何やらでいつも診てもらっているクリニックだ。

診察室の中にある電話ボックスのようなブースがあって、そこで聴力検査を受ける。毎年受ける健康診断の時よりもバリエーションもかかる時間も長い。試す音域が多かったり、本当に聞こえているかそうでないのか(だんだん聞こえている気になってしまう幻聴みたいなのもあるのだが・・・)、を確認する。検査結果はこちら。赤いラインよりも下回ると明らかに異常値ということだが、かろうじて赤いライン上に右耳は乗っている。ただし左耳と裏ベルト500Hz以下が聞こえが悪いようだ。25dBくらいなので、まだマシな方なのだろう。


骨導と言って、耳の後ろの骨に音が出る機械を当てても検査したけれど、骨導と気中を伝わって鼓膜に音が届く伝音との差は無く、どちらも悪めの結果が出た。つまり耳道や鼓膜と言った空気中の音波の振動を拾う部分には問題はなく、そこから先の音を電気信号に変えて脳に伝えるところに問題がある。だから「感音性難聴」なのだ、ということ。

突発性難聴か、あるいは周波数から見て低い音域の音が聞こえにくくなっているから「低音障害型感音性難聴」だろう、という診断。治療としては、内耳の中の蝸牛と呼ばれるカタツムリのような形の器官の中でリンパ液が溜まり過ぎて浮腫んでいるから、浮腫みを取る為の浸透型利尿剤の「イソバイド」を出される。これで様子を見てください、ということでこの日は帰されることとなった。