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2022年2月5日土曜日

嗚呼、惨めなり~3回目の休職が決まった

 

 昨年2021年の6月から9月頭まで休職していた。これが2回目の休職で、1番最初は2010年~2011年にも9ヵ月休職していて、この時は、自殺企図の惧れ有り、とのことで、主治医の医師から即入院を言い渡された。とは言っても任意入院だったんだけど…。この時は空きが無くて、閉鎖病棟に入ったのだった。2回目はほとんど溜まっていた有給休暇で乗り切った。2か月くらいだったので、何とかなった。あとは復職に当たって再発防止シートという自己分析のようなことも書かされたかな。なぜ、自分がうつ病になって仕事を休むまでの状態にまで落ちたのか分析せよ、という事だった。建前としては、自分自身のうつ病は「私傷病」ということになっているので、仕事とは関係なく勝手に病気になりました、申し訳ございません、という形で、自身が出来る限りの再発予防策を書いて産業医に提出した。マインドフルネス瞑想を続ける、とか、運動療法としてランニングを定期的に続ける、と言うことを書いたと思う。

 ただ、11月の終わりくらいから少しずつ歯車が狂っていき、12月になる頃には再び強い希死念慮に苛まれていたと思う。自分の意思とは関係なく死のイメージが頭に浮かんでくる。多かったのは、自身が打ち首になるところだ。ちょうど下の画像のようなイメージだ。首を落とされる前に前かがみになって、刀を持った処刑人が振りかぶる。刃が自分のうなじに当たる寸前、自分のこれまでの人生を悔やみ、涙が浮かぶ、そんな感じだった。

 希死念慮は更に酷くなっていき、それを暴発させない為に俺自身の中で消化するために、自分のドッペルゲンガーを目の前に想定して、包丁や刃物でめった刺しにするというイメージを繰り返していた。そうでもして憎い自分自身を滅殺しないと気が狂いそうだった。

 9月に復職したばかりだったが、仕事は俺1人にかかる負担が大きかった。顧客対応、担当案件で、別のチームにも影響が出ることを1人で準備し、問題ないことを顧客に説明していった。同じ案件で他のベテランのメンバーの方も複数いるのだが、WEB会議という場だからなのか、発言すれば自身が説明義務(またはその資料などの作成義務)が生じるためか、フォローしてくれる発言はほとんど無かった。調子は悪いながらも何とか年末を迎え、俺は久しぶりに帰省した。

 オミクロン株が流行する直前だったので、帰省中の交通機関はとても混雑していたように思う。ここで、人混みによる人酔いのようなダメージを受けて実家に辛うじてたどり着いた。年末年始の休みの間もずっと頭痛と胃痛に悩まされ、精神的には休まらなかったように思う。

 年が明けて、これはもう仕事を続けていくのも結構キツイな、という状況だったが、主治医の診察ではただ、「今は耐えて頑張りましょう。」と言われるのみ。1月上旬と下旬でも変わらず、今回は主治医は俺が休むことに対して頑ななまでに否定的だった。この頃は、夜中にあそこの場所に行って首を吊れば朝まで見つからないかもしれないな、とかそんなことを具体的に考え始めていたように思う。クレモナロープを用意して他にも必要な機材を揃えれば自殺企図までもう少しだ。 

 職場では、俺に属人化した業務があり、年度末に向けて取りまとめの作業に入る頃だった。ここで俺がまた休職でもすれば、本当に案件1個の検収に穴が空く、それも心理的に圧迫になっていた。この辺りは主治医には伝わらなかったのだろう。職場の上司や同僚も、「何とか休まないで頑張ってくれ。」と悪気なく言うので、もう無理ですよ、とは言いづらかった。日に日に出来ることは減っていった。対顧客での打ち合わせで俺が作った資料の説明は上司に代わってもらった。これはもうダメだな、と諦めたのは顧客ではなく取引先の割と仲良くやらせて頂いている方からの電話にすら出られなくなったことだった。電話はPC上で受けるUC電話になって数年経つが、電話を受けられないのではさすがに仕事にならない。もはや休職しかないのか、と諦めた瞬間だった。

ただ、この直後の診察でも主治医の見解としては「休職というのは何か違うんですよねぇ…。」と…。何が違うのかはもう問う気力も無かったが。。。この後、産業医に連絡して、業務の状況や抑うつ状態や希死念慮が厳しいということをメールで相談した。いつもは産業医面談は上司および総務の方も入れて4者面談になるので、産業医にのみ相談したい、と言って4者が集まる前に面談の時間を作ってもらった。そこで、希死念慮と混然一体となった状態で業務遂行をしていくのはとても辛いこと、このまま耐えれば耐えるほど後々の回復が遅れるであろうこと、また、最悪は自殺が既遂出来てしまうことを相談した。産業医の先生から主治医に手紙を書いてもらい、それを見た主治医が診断書を書いてくれて、ようやく休職になった。ただ、主治医との関係はこれでこじれてしまったかもしれない。実家で療養すればいい、ということで、処方薬を出せる最大期間の1か月分の薬と診断書を受け取り、休職と相成ったわけだが、もうこちらも積極的に貴方のことを診ませんからね、という若干の拒絶感を感じる。

俺の実家はかなり遠方にあるので、帰省するのはなかなかエネルギーを使うが、一旦、帰ろうと思う。戻ってこれないかもしれないが…。そうなったら診断書の期限が切れてってなると、どうなるのだろうな。

何だか治療も真面目に受けても、治ることも無く、苦しみ続けるだけの人生。苦しむことが重要なら意味もあるのかもしれないが、それを除けば、ただ耐えるのみの人生に意味はあるのだろうか。薬を飲んで不安定ながらも仕事を続けて、それ以上の解は無いのだろうか?最大容量まで飲んでも結局、仕事から脳が破壊されるレベルのストレスを受け続ける。これでは抜け出せない無間地獄だ。

2021年11月25日木曜日

抑鬱状態に苛まれる「俺が何したって言うんだよ。」


  10日ほど前から、いや、11月に入ってから少しずつ調子が悪くなってきている。特にこの10日間で加速度的に精神状態が鬱状態に傾いていっている。瞑想やジョギングは夏から続けていて(瞑想は少しサボり気味ではあったが)、これは俺の精神を少しでも健全に保つツールだとも思っていた。ジョギングは純粋に走るのが楽しいと言うのもあったのだけれど、今はあまり走りたいとも思えないし、無理やり着替えて準備運動して嫌々外に出て走り始めて…だいたい5㎞を超えれば頭の中が空っぽになってくる。でもちょっと辛い。瞑想はネガティブな雑念が次々と浮かんできて、煩悩だらけでうまく行かない。

 こういう鬱状態に陥る度に思う。「俺が何したって言うんだよ。」 

問うても誰も答えてはくれないのだが。精神疾患も患者の人それぞれで症状も千差万別でしょう。薬の相性もある。Aという薬がある人にはとてもよく効いても、そのAが俺にもよく効くという保証はどこにもない。また薬を増やしたり減らしたりしたからと言って、それで症状が良くなったり悪くなったりするようなものでもない。人間の精神はそんなデジタルなものじゃない。薬を減らして悪くなっても、じゃあまた増やせばいいじゃん、ということでは解決しないことの方が多い。

この病気さえ患わなければ、俺はもっと色々なことが出来ていただろう。そう思うことがよくある。仕事上の評価は分からないけれど、趣味や好きだったことも出来なくなっているようなことはなかっただろう。今となっては無意味な後悔だけれど、人間関係ももっと繋がりを保っていたかもしれない。友人ももっと残っていて、恋人と結婚したりもしていたかもしれない。

鬱病は罹患する人数が多いせいか、遺伝しない、と言われているが、俺はこれはポリティカルコレクトネス的なものだと思っている。俺の鬱は23歳の春から始まった。しばらくは毎年春になると鬱が悪化していたので、春=死のイメージが付きまとう季節だった。 統合失調症や双極性障害は思春期から青年期に発症する人が多いと聞く。鬱病に関しては40代~50代になって初めて発症する人が多いとも。俺のように青年期に発症した人間はやはり、前者の統合失調症や双極性障害的な発症に近いのではないか?そして、こういう精神疾患はもし子供が出来たら遺伝するのではないか?そんな風に考えている。

23歳から耐えて、29歳でとても大きな強い希死念慮に襲われて精神科病棟に入院。その後、別の心療内科でやっている復職のためのデイケアに通い、実践できそうな心理療法などを教えてもらう。その中でマインドフルネス瞑想が自身の好きなオートバイで走っている時の感覚に近い感覚を得られることから、断続的にではあるけれど続けてきた。精神的に好調な時は運動もするようになった。有酸素運動でストレスを浄化するのだ。しかし、いざ精神的に不調に陥るとこれらのことは役に立たない。薬を飲んで、少しでもよく眠り、体を休め嵐が去るのをひたすらじっと耐えて待つしかない。そして40歳の今もまた鬱の嵐に襲われている。

 そんな嵐の中で独り言ちるのだ。「俺が何したって言うんだよ。」

2021年9月1日水曜日

復職の条件

 


6月下旬から休職して療養した結果、そろそろ復職して良い、という主治医からの許可が出た。復職してよろしい、という診断書を主治医からもらい、会社の上司へ郵送して送ったが、会社指定のフォーマットで記載してもらう必要があるので、もう一度、そのフォーマットに従って主治医に書いてもらい、提出せよとのこと。診断書は1通で3300円なので、何度も出すことを求められると地味に痛い。

先週、復職のための面談を産業医、上司含めた会社側と行い、診断書を出しなおすことと、自分なりの休職に至った経緯の分析と再発防止策を紙にまとめて提出することとなった。精神疾患による休職からの復職で再休職に至る割合は半年以内で4割にも達するという記事を見かけたので、会社側が慎重になるのはもっともだ。拝承。従います。

 間違っても、精神疾患で休職することは、交通事故に遭うようなものだ、という論調にならないように文章を組み立てる。でも全くの無益な行為ではない。分析によって、なるべくしてこうなったのだ、という納得も得られることだった。

10年前、2011年に年が改まる少し前から俺は閉鎖病棟で入院していた。自殺の危険があるため、とのことだったし、当時の俺はいつか閉鎖病棟で入院して自殺の危険から保護されるような身分になるに違いない、という予感めいたものもあって、その精神科病院の外来に通い続けていた。今回の休職でも、やはり診断書が出る直前には自殺することしか考えられなくなってしまい、業務はやりつつも心は千々に乱れ…という状況だった。

今回の休職については、原因が起こってから休職という結果に至るまで約3か月。面談では、アウトプットが出せていたので、特段配慮する必要はなかった、と言われた。だが、3月から俺は不調を訴えていたのだ…。アラームを出していた。自死を考えている、というのは何度も訴えた。それなのに、それが仕事上のアウトプットを出せていたから問題ない、という理由で片付けられては、アウトプットは出せていましたが、気が付いたら奴は首を括って死んでいました、なんていうことになるのか…?

まぁいい。思うところは多分にあるが、やはり、同じ環境でも病む人間とそうでない人間がいる。病んだ者としては、その落とし前を付けるためにも、再発防止策とやらを書き連ねて提出することとしたい。

俺にも仕事に穴を開けて同僚に対して、申し訳ないことをした、という思いはある。取り返せるとも思えない。ただ、分を超えた能力で組織に貢献することは残念ながら不可能だ。少しでも自身の精神面と身体面の健康と向き合った中で、引き出せる最大限の能力と努力で以って応えたい。

労災として認められたいという訳ではない。休職制度があるだけマシということもあるだろう。そして俺の替えはいくらでも効く。ただ、精神障碍者Aとしてしか扱われない、それは悲しい。人として扱って欲しい。そう言う願いを込めて、この記事をアップする。

2021年7月17日土曜日

仕事に生活を与えてもらったが、俺自身は壊されてしまった

 

今日は主治医の元への週に一度の通院日だった。何だか酷く疲れていた。本やテレビは目を向けることもあるけれど、最後まで読んだり見たりする気力が無いことは伝わったと思う。病院に行き薬局で薬を受け取り、駅まで歩く道すがら陽は傾き夕暮れ時だった。仕事を終えた人々とたくさんすれ違う俺の足取りはいつも以上に重かった。

ふと仕事にはまだ戻れない、いやもしかしたらもう戻れないのか…、そんなことを考えた。考えさせるに十分な寂しい夕暮れ時だった。会社に入って仕事をすることでこれまで生活をしていくのに十分な給料をもらい、云わば生活を与えてもらったと思っている。だが、10年ぶりの二度目の休職で、俺自身は完膚なきまでに壊されてしまったこともまた事実だなと思った。

何か泣き笑いのような表情しか出来なくなっていて、持っていた文庫本をもう少しで読み終わりそうなこともあり、病院から駅までの帰り道にある喫茶店に寄って本を最後まで読み終えた。本は遠藤周作の「ただいま浪人」という本だった。20年以上前に買った本だが、今では多分絶版になっていて、活字も現代の小説本よりも小さい。おまけに770頁以上ある。おそらく、再版されるとしたら文字を大きくする都合上、上下巻に分かれるだろう。初めて読んだころ、俺はまだ受験生だったか浪人していた時か(浪人の時だったからこそ買った気もする)、もしくは大学生だったか…。だが20年経って内容は全く覚えておらず読み進めて行くと、些細なことだが、自分に関係あることが少し書いてあった。奇妙な縁だ。

 喫茶店での読書を終え、帰りの電車に体を滑り込ませる。何だか混雑している電車も息苦しさを感じた。ふと電車が大きく揺れて、俺は車内で一人無様に転んだ。足を踏んだ人やぶつかった周りの人に謝罪しつつ、どうしようもない情けなさを感じた。涙が出そうだったが泣けなかった。喉は何かが詰まったかのように感じ、いっそ何か刃物で突き刺してしまいたかった。 

おそらくこの病気に出口は無い。そしてネガティブでいる時間が精神面で健康な人に比べて長い以上、身体面についても何かしらの悪影響を与えるだろう。何もしなくてもあと20年くらいで俺の人生は終わりになるかもしれない。そんなに長生きは出来ないのではないか。そんな気がしている。人生を終わらせるなら、小説の人物のように周りの人との繋がりを泣く泣く断っておかないといけない気がするし、こんなことを考えている以上、病気が治る見込みも薄い気がした。

一度だけのうつ病の発症だったらもしかして、治ったかもしれない。しかし、何とかやり過ごしているうちに人生の半分近くがうつ病を患っていた年数になっている。俺の精神は歪み壊れ、もう元に戻ることは無いだろう。

2019年9月29日日曜日

じっくりコトコトお湯で煮られる

うつによる苦しみって何だか釜茹でにされて弱火でじっくりコトコトお湯で煮られているような感じに似ている気がする。耐えようと思えばまだ耐えられる気もするけど、気が付いたら温度も上がっていて火傷だらけになってて取り返しがつかないけど、延々とコトコトと煮られ続ける、そんな感じ。

あまりスピリチュアルなことを信じる性質ではないけれど、もし前世があったのなら自分はそこでも自殺していたのだろう、そんな気がする。最近は希死念慮がまた酷くなってきてそろそろ1か月以上は調子を崩している。仕事の場でも1人で作業することが多くて、そうすると煮詰まってくるのだけれど、打ち合わせとか人と会話しながらの場合は何とかまだやっていける感じだ。

でも、使い物にならないと産業医面談で判断されれば、休職ということになるのかもしれない。結構、瀬戸際だと思う。

休んでも結局、煮られている苦しみは消えないので、何とか仕事を続けながらこのうつの波を切り抜けて行きたい。

2019年4月17日水曜日

転がる石はどん詰まりまで止まらない

ちゃんと生きようと思って目覚まし時計を買って、朝に強くなったと思ったのだが駄目だった。だんだんとスヌーズ機能を止めたり何とかして眠気が残っているうちは半分無意識に抵抗しているようだ。どうしても外せない用事の時だけは抗うつ薬を飲まないという今までのソリューションしか無かった。

春になって調子が狂ってきたなぁと感じていたけれど、段々と悪い方向へ転がり始めた。転がる石に苔は生えない、ではなくてもう止まらない。どん詰まりまで直滑降だ。朝の電車ではイヤホンをつけて音楽を聴く・語学講座を聞く、音楽を聴いてる時は文庫本を読む、というのが僕の基本的な通勤スタイルなのだけれど、段々と音楽を聴く気力も無くなり、DAPは使わないままビジネスバッグの中に入ってる。職場に着いて誰かと会話すれば少しマシなような気もするけれど、用が無ければ自分から話す元気も無く、また沈黙しているとますます疲弊といたたまれなさが強まってくる。

「今までの経験から悪くなりそうな時は早めに自己管理(仕事を早めに切り上げたり、 有給休暇を取得したり)出来るものね。」とも会社の産業医から言われるのだが、どうだろう…。自分自身の思考力は日に日に落ちていく中で、普通に見せかけることは出来ても、本当に病状を和らげることは出来ない。ある程度、強くうつ病の症状が出た場合は、一旦落ちるところまで落ちて希死念慮で身動きが取れなくなって短期間休む、というのを繰り返してきた。

 病院の先生は長期的には良い方向に導いてくれる存在だと思っている。1日飲んだだけでは効いたとは思えない抗うつ薬も飲んでいれば、完全には元気にならなくても後から振り返ると最悪の状態は脱していることが多い。ただ、最悪な状態にいる最中は即効性のあるものではないので、耐えるしかない。「悪くなったらすぐに主治医の診察を受けるんだよ。」と言われる。風邪やインフルエンザでも耳鼻科に行って診察してもらって薬を飲んだからってその日のうちに治らないのと同じで、診察を受けたから症状が和らぐものでもない。

ずっと余計なことを考えなくていいくらい身の回りのことで忙しくなればうつ状態になんてならないよ、と言ってくれた人もいた。こちらのことを考えて親切で言ってくれたのだろうけれど、一つのタスクもこなせなくて焦りだけが募る未来しか見えなかった。

何か考えを整理すれば病前に戻れるのならそうしたい。ただ何度も再発を繰り返してきた自分にはおそらく無理だろう。薬との縁は一生切れない。薬を飲んだ状態を基本としてその枠の中で少しでも人生が上向くように努力していくしかないのだけれど。重荷を新たに背負うには疲れすぎているし、このまま孤独に耐えながらしのぐしかないのかもしれない。

2017年12月13日水曜日

急に辛くなってきた

抑うつ状態が急激に加速してるようで辛さに耐えられなくなってきた。涙を流さないように堪えているだけで、ふとした切っ掛けで涙が零れそうな悲しみを常に感じている。別に何か原因があるわけでもないのだ。いつもの不調の通りと言えばそうなのだけれど…。誰かの訃報や殺人事件のニュースを見聞きする度に、死ぬのが自分だったらなぁと考えることを止められないでいる。

職場でも人の声が気になるようになってきた。他人の独り言なぞ気にしても疲れるだけだと言うのに馬鹿だね。

積極的に行動に移せるような計画も無いし、気力もない。ただ、自身の命が早く尽きて欲しい。そう願う今日この頃。

ふと思い出した。7年前の今頃、自殺衝動が高まって精神科の閉鎖病棟に入院し始めたんだった。ああいう状態とは今は違うと言える。

何でこんなことを書き残すんだろう。あとでこの暗いトンネルのような不調の日々を抜け出してまた似たようなことが起きた時に振り返る為に有用だからかもしれない。しんどくてもどうせ死にきれないよ、とは思ってるけどももし死んでしまったとき、どう苦しんでいたかの記録にはなるかもしれない。

2016年5月10日火曜日

どんな仕事なら出来るのか?~転職編~

連休の間、帰省して色々と現職で続けることや転職して新しい仕事を始めることについて考えていた。おそらく現職で続けられるのはあと1、2年が限界なのではないかと思っている。

昨年は転職活動をし 1企業の面接を受け、内定まで頂いたのに辞退してしまった…。色々とああしておけばよかったこうしておけばよかった、と言うことはあるけれど、昨年は断薬をせず内定をお受けして転職していれば3月末の不調の強烈なスイッチは入らなくて済んだかも。もっとも職場は入ってみないとどういう環境か分からない博打みたいなところはあるけれども、面接でお会いした方々は温和で今の職場よりも温かそうだなと思ったように記憶している。

現職は皆さん、激務で働いている中、自分だけ制限をかけられて楽をしている。と言っても皆さんが終電まで仕事で僕は遅くても20~21時までという感じだ。たまに22時まで行くことはあったが、仮に鬱が治っても以前のように周りと同じように終電までやっていくのは不可能だろう。そして、こうして制限を受けていることは感謝しなければいけないけど、周りからは取り残されて行っている焦りもある。

そんな楽な仕事なんてあると考える方が甘いのかもしれない。ただ、もう少し案件が小さくて一つの仕事のサイクルが早く今よりも負荷が少し下がる仕事であれば十分やっていけるのではないかと思うのだ。

2016年4月17日日曜日

復帰して1週間

前回のブログにも書いたように4月11日から復帰。月曜から金曜まで休まずに会社行けた。病気のこととは関係なく、3月までの昨年度と4月からの新年度で部署内の分担が変わって、引き継ぎをしたりされたり。今まで持っていたことは他の人へ引き継ぎをしたが、今年度から受け持つ案件は結構ヘビーな気がする。猫の手も借りたい、という上司の気持ちは分かるが「ここは君に頑張ってもらうしかない。」とか2週間前に自殺寸前まで追い込まれていた人間に言う言葉じゃないよなぁ…とは感じた。そして、この仕事をこの先続けていくことは難しいだろう、と改めて思い直した。

体の調子がどこまで良くなるかにも依るけれど、僕はこの仕事をそう遠くない将来、辞めることになるだろう。辞めて何をするかという問題はあるけれど、去年は面接を受けて内定までもらえたのだから何とかなるのか、それとも転職もうまく行かずにますます辛い立場になってしまうのか。

まずは、情報を集めることが大事。

2016年4月10日日曜日

会社を休んで帰省して短期療養

前回からの続き。会社の産業医とも主治医とも相談して10日ほどじっくり休んで療養することにした。その間、一人にしておくのは自殺衝動が起きているので危険なのと食欲も無くなっているので、実家に戻って療養することを約束し、帰省することに。この半年ほどは近くはない実家に何度も帰省している。父方が昨年秋、母方が今年初めと両方の祖母が亡くなったので葬儀、四十九日もあって帰省していたのだ。思えば2人の祖母を亡くしたことも日頃の精神的なストレス、疲労に加えて喪失感として積み重ねとなっていたのかもしれない。もう地元に帰っても2人の祖母はどこにもいないのだ。

実家に帰ってからは当初は食欲もほとんど無かったが、少しずつ食べられるようになった。ただ、まだ万全とは言えない。家族と折り合いが良くなかったとこれまで思っていたが、弱っている自分には気をかけてくれていると感じた。 父も母も年を取ったというのもある。父は以前はやはり自分のする仕事や家族を導く自負みたいなのがあって、押し出しが強かった面があったが、年を取って自信が無くなったようなことを言っていた。

家で1日1時間程度やりたかった英語の勉強をする以外は基本的にあまり何もしていなかったが、父方の実家と母方の実家に行き、それぞれの祖母にそしてもっと前に亡くなった両方の祖父にも手を合わせた。これが今回の帰省で出来た一番良かったことかもしれないな。

明日11日の月曜からまた出社して仕事に取り組む。当面は定時間勤務の残業なしということになるとは思う。今までも実はそうだったらしいのだが、「自発的に」残業して仕事を片付けていたことになっていたようだ…。両親ともにもう死ぬくらいなら仕事を代わってもいいのでは、という雰囲気にはなっていたがさてさて。

2016年3月27日日曜日

死神に壁ドン!~また死ぬかと思った

ここ2年以上は死んでしまいたいという希死念慮からも遠ざかり、調子が悪くなっても集中力がなくなる、落ち込む、ふさぎ込む、体の自律神経的な不調程度で済んでいた。が、一昨日の朝、急に「このまま数日以内に死ななければならない!」という思いに捉われて、僕は酷く狼狽した。今の薬じゃダメなの?しばらく落ち着いていたじゃない?何で?数日以内なら何を準備して何を整理しないといけない?そうだ、メールでもいいから遺書を書こう、そんな感じだった。当然、仕事にはならず、早退して主治医の元へ受診。

今のサインバルタ60mg、リフレックス15㎎に加えて、リフレックスを更に15mg、つまり合わせて30㎎、エビリファイ内用液6mgを頓服でもらった。死にたいほどの不安が強い時はエビリファイでしのいでください、とのこと。

主治医曰く「人生というのは霧の中を歩いているようなもので、多くの人はそこに足を取られるような大きな穴が開いていたり、霧の向こうは断崖絶壁だったりというのを知らないまま一生を終える。また、知らないことが幸せなのかもしれない。しかし、貴方は断崖絶壁をすでに知ってしまっている。何かの弾みに今回のようにまた思い出すことで断崖に面してしまうことは必ずあるのだ。」と。もう死ななきゃ、とブツブツ言いながら電車に乗り、降りて病院まで行った僕の不安は主治医の先生と話すことで少しだけ落ち着き始めていた。

薬局で処方された液状のエビリファイを1包飲み干し、水で流し込んだ。ひどく苦かったが、これで効いてくれ、と藁にもすがる気持ちで。気が付いたらとにかく頭痛がひどかったがこれは朝からだろう。

まさにちょっと好調を保っていたからって調子に乗るなよ?と死神に襟首を掴まれて壁に押し付けられた壁ドンだったのだな、と今は思う・・・。