2014年2月12日水曜日

これが奈落の底なんだろうか

年明けからどうも精神状態がよくない。仕方ないと言えば仕方ない病気ではあるんだけれど…。職場の人にも、明らかに精彩を欠いた顔をしていると言われたし、体重も減り続けている。でも、今回の不調はこの辺で底を打ったような気もする。資格の勉強もずいぶんとサボってしまったけれど、今日から再開。無理をせず1日30分だけでも続けていけたら、と思う。

ほんの少しの他人との気持ちの良いやり取りでずいぶん気が楽になることもある。思うに独りという殻の中に閉じこもって“こじらせてる”感はある。ちょっとしたことで、そこまで深刻に考えなくてもいいのかもね。ただ、余計なことをしゃべってしまった時は相手よりも更に辛辣に批判してくる自分自身がいることも確かなわけで…。そういう時は誰の迷惑にもなっていないのかもしれないけれど、自己嫌悪のループだ。

一番大事なコトはキレイさではなくてバチっとくっつける溶接

仕事はやるべきことはやっているはずだけど、どこかで底が浅い内容にイラついてもいる。この漫画のコマのように、バチっとくっつけるというよりはただ見た目がキレイな仕事をただ数をこなしている。何だかんだでもう10ヶ月ほどそんなことをやっていて、まだ数ヶ月はこの作業が続きそう。腐っていても仕方ないし、これくらいで腐っているようでは、新たな道を切り開くなんて夢のまた夢だ。というわけで、目の前にある出来ることをその瞬間瞬間でこなしていくのみ。

2014年1月12日日曜日

気づき

俺は1年ほど前から精神の安定の為にマインドフルネスという瞑想を実践し続けている。これは、もともと仏教の瞑想法で「気づき」という言葉が英語になってそれが日本に心理療法として入ってきた。最新の心理療法として注目されている。マインドフルであるということ=今、現在自分が何をしているかに常に注意を払って気づいているということだと思っている。マインドフルネスはその名詞形だね。

しかし、瞑想を行っている「座っている時」だけで普段から自分自身の振る舞い、行い、発する言葉に対して注意を行き渡らせているかというとそうではない。自分自身の心を観察できるのは自分ひとりだけだし、これからは行動や言葉を口から発する前にもっと注意深く観察するようにしたい。そうすることで自分が何者であるかを独りでじっくり見つめ直してみよう。意識しないで軽々しく発した言葉で人を傷つけたこともある。もしかしたら、傷つけたことすら気が付いていないこともあったかもしれないね。

今までは“執着”をよく観察しないで手放そうとしていた。反復練習である程度は可能になったと思っているが、もっとその執着の本質をよく観察してから手放すようにしてみよう。

2014年1月5日日曜日

目標

年が明けた。今年は長い戦いが待っている。今までの自分のスタイルには合わないことだが、「頑張らない、妙なやる気を出さない」ということを目標に仕事に取り組もう。やる気を出して、多くの仕事を片付けてきたつもりだが、昨年は体調も崩したし、のめり込めばのめり込むほど、自分の人間性が下劣になっていくような汚染されていくような気がしていた。一生懸命やるのは当たり前で結果を出してナンボと思っていたので、それが出来ない人に対してかなり敵対的で攻撃的な態度を取っていたのだ。少し、一歩いや二歩か三歩引くくらいで、少し引いたスタンスで取り組もうと思う。

己の心身の健康を最優先にして、仕事に穴を開けないというのも大事なことなのかもしれない。立ち止まって考えられるようになった、ということなのか、単に年を取って考え方が老成しつつあるのかもね。

年末年始の帰省では結局、肝心の父とは話が出来なかった。だが、父本人の口から「俺は今後、息子の人生に口を挟まない。」という言質を得ただけでも、昨年11月に手紙を書いて自分の両親に対する思いを伝えたことは“対決”として功を奏したように思う。何でもハッキリさせない方がいいこともあるのかもしれないね。ハッキリさせた瞬間に壊れてしまう関係もあるのだし。それで壊れてしまうような関係なら、無くて結構と思ってしまう自分は冷たい人間だ。

2013年12月27日金曜日

人には意思がある

人と動物の違いがあるとしたら、それは「意思があるかどうか」とよく言われる。世紀末覇者さんもそう言っていた。 非暴力と微笑みを「武器」として侵略者の略奪に抗わずに争いを避ける、それはもう人ではなく意思を放棄したただの動物だ。


バイクですごく速い先輩もそう言っていた。言われたから、で行動を起こすのは人間ではなくただの動物だ、と。


今は自分の持つ意思の力を信じたい、と思っている。意思こそが人を突き動かす原動力なのだと。何かを決める時、自分の意思で、どういう結末を招くかを覚悟した上で決める。今は、ある目標に向かって努力する、というのが俺の意思。人生に転機が思いがけず訪れることもあるだろう。自分が試されている、と感じるような厳しい瞬間が訪れることもあるだろう。その時に、何かを決めざるを得ない状況になって自分で決める。ただ、その時「逃げ」で道は選びたくないよね。


今の自分がどれほどの人間であるかをよく考えて、それからどんな人間になりたいのかをよく考える。あとはそのギャップを埋めるために努力する。また間違えたりすることもあるかもしれない。ただ、言い訳はしたくない。その為にも意思を持って決めていきたいのだ。そして、今は努力の為に孤独を感じるような状況かもしれない。だけど、俺にとって孤独は別に怖くない。それを孤高に昇華させればいい。

年を重ねるごとに、熱しやすく冷めやすい性格は、熱しにくく冷めやすい、という面倒な性格になってきた。それでも、砂をふるいにかけるようにして、残ったものが本物の意思であり、情熱の原動力だと思う。それが今は確かにある。それをしっかりと握りしめて、悪い結果が待っていることが分かっていても立ち向かおう。そう思った。

ただ、来年はもう少し人とうまく関われるようになりたい。

2013年12月22日日曜日

後ろなんか見ずに 走り続けてきたけど



後ろなんか見ないで全力で走り続けた。まだ駆け抜けてはいない。終わりは見えないからだ。

いくら走っても走っても終わらない。チームで仕事?欺瞞なのか嘘なのか。一緒に働いている人のヤリ方がおかしいのは分かっていた。それでも、俺が俺自身に「意思がある」ことを証明する為にどんなにバカバカしくてもやりとげようと思っていた。

正しい事よりも組織の和が重視され、間違ったことが横行する。頑張れば頑張るだけ損を見るような気もしている。もしかしたら、頑張らない方が楽なのか、とも。人はこんな環境の中でも腐らずに努力し続けられるのか自分自身を実験材料として観察し続けている。

2013年12月13日金曜日

撤退

一昨日、今日と会社を休んだ。もう限界みたい。病院に行き、とりあえず1週間の休養が取れるように診断書を書いてもらった。戦略的撤退なのだと思いたい。このまま潰れるのではなく、少し休んでまた走り出すための充電期間だと。

仕事は待ってくれないし、全部キッチリ片付けてしまいたいし、またそうしないと気が済まない。結果、自分の容量を超えて仕事の負荷が上がる。また、仕事も集まってくる。だが、それもここまでだろう。線を引いて、一歩引かなければ、また3年前と同じことの繰り返し。こんな所で終わるのは正直、悔しい。だが、仕方ない。諦めろ、と自分に言い聞かせる。

2013年12月10日火曜日

あれから3年経った

3年前、俺はもう消えてなくなりたい、死んでしまいたいという気持ちに苛まれていた。そのまま、自殺の危険有り、として精神科の閉鎖病棟へ直行で入院となったのだが、それからちょうど今日で3年経ったわけだ。当時はそういう自殺願望が凄まじい以外は、至って普通(だと思っていた)。変わらず仕事の作業もできてた。ただ、ひっきりなしに自分が死ぬイメージは脳裡から離れなかった。惨めに首を吊ってぶら下がっている様子、飛び降りでグチャグチャになった様子、ありとあらゆる自殺法を脳内でシミュレーションし、確実に逝けそうな首吊りで行こう、というのだけは決めていた。思い出しただけでもキツいが、3年経っても相変わらず仕事で潰れそうになってる状況は変わっていなかった。当時の自分からしたら3年もしたら、もう死んでいるか、或いは厄介ごとは解決してもう少し幸せに暮らしていると思いたかっただろうが…。

今朝は、冷たい冬の雨が降っていてそれに打たれることで、惨めな気分がさらに加速していた。思い出すまいと思って仕事をしていたが、当時は本気で死ぬつもりだったものなぁ、とかそういう考えが頭をよぎり続けていた。結局、この3年で何が変わったのだろう?会社に行って、人並み以上には仕事をこなせるようには戻ったとは思うが、私的な部分の「人生の厄介ごと」については、まったく片付いていない。

フラッシュバックという奴だろうか。久々に消えて居なくなりたいような気分に戻ってしまった。

生きることに意味はないとは思っている。もしあるとしたら、この身体は動物や昆虫と同じく子孫を残すための遺伝子の入れ物に過ぎない。しかし、それすら放棄したから、やはり生きる意味はない、というところに帰着するしかない。