2013年8月28日水曜日

何もない人間

僕は鬱病を発症して以来、自分のことを「何もない人間」と思って生きてきた。バイクに乗るきっかけになった好きな漫画に同じようなセリフがあった。

「お前は自分を何もない人間だと思っている。大事な将来や楽しいこともなく…」

このセリフは棘のように僕の心に刺さったままだった
精神科の閉鎖病棟から退院してからはまさにこんな感じで3年間を過ごしてきた。入院の直前に今まで経験したことがないレベルの自殺願望に苛まれていてもう少しで決行するところだったことから、自分の人生はあそこで一度終わった、今生きているのはオマケみたいなモノという諦めに近い感情があったのは否定できない事実だ。

夢がなくても人は生きて行くことは出来る
退院してから2年半以上経ったけれど、うつ病は一進一退。よくなったと思えば、エアポケットに落ちるように再び奈落の底へ。しかも奈落の底が二重底になってる。そしてモグラ叩きの穴のようにあちこちにそんな奈落が口を開けて待っている。気分を良い状態に保つのだけで必死で過ぎた3年だったと思う。気分の上下に「執着」し過ぎてただけなのかも。そして、上の画像のセリフのように、「夢を持たない」ように生きてきた。死ぬのには大変な覚悟とそれなりの準備が必要と分かったので、変な言い方だけど「死ぬのが面倒」で生きていたようなものだ。うつ状態が酷くなってくると身体の感覚や善悪の判断力も少し麻痺してくる、というかそういう時に人はふっと死を選んでしまったりするんだろう。状態が悪い時は、今なら刃物の刃の方を力いっぱい握っても何とも思わなさそう、とかそんなことを考えてた記憶がある。

幸せというものもよく分からなくなってしまったし、別になくても生きていける。 そして恋愛ごとには片目をつぶってそっちの方は見ないように生きてきた。薬の副作用のせいなのか、それとも鬱病の症状によるものなのかはもう分からないけれど、興味そのものがなくなっていたのは事実。真面目に考えれば考えるほど今の自分の置かれた状況はもし彼女や妻となる女性が現われても決して幸せにすることは出来ない、ということを思い知らされ、意図的に抑え付けていた面もあるのかもしれない。

いつしか草食系を通り越した「絶食系」で孤独な男、つまり「絶食系孤男」を僭称しながら無為とも思える日々を過ごして今に至る。

2012年6月7日木曜日

元上司

元上司から年賀状を頂いていたのに、返事出来ていなかったので会社のメールでお礼を言ってみた。新人で配属された時にその元上司の貴方の下につけてもらった事に対して、ありがたかった、とも。

彼の過去に仕事で経験した話を深夜まで残業して一息ついてる時に語って聞かせてくれるのが何よりも好きだった。この人のような技術者になりたい、と思えた数少ない人であり、それは今でも変わらない。

仕事である案件がボツになってしまったが、まだ"昔話"にするには早い、と言って勇気付けてくれた。来たる日に向けて少しでも準備をして行こう。自分の背中を後ろから眺めるのを想像しても、自分に恥ずかしくない生き方をして行こう。そう思った。

2012年4月12日木曜日

喜怒哀楽のうちの「哀」のみ

もうここ何年も、生きていて楽しいとか幸せだとか思わない状態が続いている。ちょうど喜怒哀楽の4種の感情のうち、「哀」しか無い、そんな状態。

でもこれじゃ駄目だとも思わない自分がいる。世間一般的に見れば孤独で決して幸せと言える状態じゃないとは思う。でも、それってそんなに駄目な事なんだろうか?望めば今以上に友人を増やし、彼女を作ってその後、家庭を持ったりして幸せに暮らす、多分出来ると思う。でも、それって本当に幸せなのかな?幸せのカタチは人それぞれであって然るべきで、そんな雛形に納めるような物なのだろうか?

僕は病気で休職していた間に結構、価値観が変わってしまったようで、あまりそう言う事が大事とは思わなくなった。少なくとも今はそういうモノは望んでいない。良いことか悪いことかは分からないけれど。おそらく年齢的にも今は世間の言う幸せな生活(伴侶となる女性を見つけるとか家庭を持つとか)を手に入れる分水嶺にいるとは思っている。だけど、今は自分の心の振れる方を目指して生きたい、そう思う自分がいるのも事実。

こういう病気だからかもしれないけれど、いつ自分の人生が終わっても良い、その時、誰も悲しむ人がいない、そういう風に生きていくのが唯一の望みだ。だから持ち物を減らしたり、これ以上自分の人生を拡げない(家を買ったりとか車を持ったりとかしない)。そう心掛けている。心穏やかに過ごせれば、人生における楽しい出来事や幸せも要らない。

愛情は執着の元で、執着から人の苦しみは生まれる。だったら、最初から苦しみの元は要らないや。

2011年9月14日水曜日

車を手放した

今までありがとう、プジョー106 s16

9月8日に車を手放した。プジョー106。フランス本国仕様のs16というグレードだが、イギリス仕様だとGTiになる、いわゆるホットハッチというヤツだ。1トンを切る軽い車体にDOHC1600ccの120馬力のエンジンの組み合わせ。左ハンドルで5速MTというニッチなクルマ。希少車だけどもう9年落ちなので、買い取り価格は約52万円。悪くない数字だったと思う。2年前に買った時は諸費用込みで200万円だったけど。

車は楽しかったけど、どこか分不相応な事をしてしまった感じがして、ずっと座りが悪い感じがしていた。そして、残るただ一つの真実が俺の心を軽くしていた。「来月から駐車場代を払わなくて済む。」

バイクもクルマも2台持っていても乗る人間は1人だし、通勤で使っているわけでもない。2年間で6000kmほどしか乗らなかったと思う。ただの贅沢品。最後はタイミングベルト交換してクラッチもオーバーホールしたのでまだまだ乗って行けそうだったけれど、急に心が冷めたというかそんな感じだった。

俺、もうクルマは好きじゃないのかなぁ。当分は要らないし、次にもし買うとしてもバイクを載せるためのトランポになりそうな気がしてる。いかに秀でたスポーツカーでも、それを「合法的に」振り回せる場所はサーキットとかしかないんだよね。

2011年6月9日木曜日

Midnight Express from 横浜公園

ここ最近、心の中に瓶の底に溜まった澱のようにどす黒いモノが渦巻いている。そいつらを浄化してやりたくて、6月8日水曜日の夜22時に、愛車を引っ張り 出した。正直、出かけるときはこのまま、帰って来れないかもしれない、そんな思いが頭をよぎった。そのまま、横浜公園ランプへ。これまで、首都高は"通る"ことばかりだったのだけれども、今回は“目的地”が首都高。こんなのことは、これまでバイクに乗っていて初めて。

某走り屋漫画の主人公よろしく、自分の心とマシンの調子を確かめながら横羽線を上る。気分は最悪。呼吸も深く出来ず浅くしか吸い込めず息苦しい。横羽線を上り、とりあえず途中の大師PAに入る。ガラのよろしくないおじ様達が、 自販機に近いというだけで、二輪車の駐輪スペースの前にデカいクルマをビタ付け。コーヒーを飲みながら、面倒くさいから関わりにならないように、あんまり彼らの方を見ないようにする。

横羽線 大師PAにて
そのまま、バイクに跨って、C1こと都心環状線を目指す。浜崎橋JCTから右側に折れ、まずは内回りをクルクルしようと思うも、工事渋滞だらけで1周回っただけで、断念。湾岸に出て大井JCTでUターンして再度、横羽線上り経由で浜崎橋JCTを左に折れて今度は、C1外回りを走ることにする。

外回りを数周回って、箱崎JCTから9号経由で湾岸線に出てきて、東京港下の海底トンネルを通った際に、取り敢えず、アクセル全開。6速8500rpmくらいまで、引っ張ってみる。いつもなら、このギアでこの回転数なら悩みや鬱々とした気分は全部、自分の後ろに排気音と共に掻き消えていくのに、今日は全く消える気配もない。

そのまま、大井JCTでUターンして、再び横羽経由で、C1外回りへ。内回りよりはマシだけれども、とにかく、車が多くて全く気持ち良く走れない。そのまま、2周ほどして、何故か6号向島線へ迷い込んでしまった。これはいつも常磐道へ乗る時のルートだ。このままだと三郷についてしまって帰れなくなるな、と少し 焦るんだけど、上手い具合にC2への分岐が現れて、これで、C2~葛西JCT経由で湾岸で帰れるとホッと一息。夜のC2には、殆ど車もいなくて、漆黒の闇と静寂が支配していた。

湾岸に戻ってくれば、再びさっきの東京港下の海底トンネルを通るわけで。前方を見てみると右車線には、車がいない。それをいいことに、今度は2速からきっちり、全開全開の繰り返しで4速12000rpmまでとにかく回した。脳ミソがズレるような加速の中で非現実的な離人感が自分のまわりから抜けない。まるでゼリーの中に包まれているような非現実感。これが離人感でとにかくここ最近はこれにさいなまれている。まだ、5速と6速が残ってるのに何やってんだよ?と自分にイラつくも、そこは次回の楽しみ?に取っておこうかと。トンネル自体は、長さが2kmくらいあるので、結構、いいスポットかも。あとは、6速8000rpmでも、意外とバイクって曲がるん だ、って少し驚いた。こんな状況下でも、転倒の恐怖とかは全く無くて、シールド越しの風景は相変わらずのテレビでも見てるような現実感の無い感じ。

そのまま、大井の左コーナーをゆったりと抜けて、その後のツバサ橋も少しだけ頑張ったけど、もういいや、って感じで精神的な緊張の糸がプツンと切れてそのまま、大黒PAにイン…

コーヒーを飲みながら、今宵の行動の余りのくだらなささに少し反省。結果として全く気分は晴れなかった。結局、この夜だけであてど無く、150km以上も走ってしまったのだけれども、全く、気分は救われず。まさにしがらみを抱えない何もない人間の自傷行為に過ぎないのだった。