2014年3月18日火曜日

人身事故

いつものように会社での仕事を終えて、職場で定時のチャイムのあとに1時間ごとに鳴るチャイムの2回目がなる時間。俺は席を立って帰路についた。そして、いくつかある自宅までの乗換駅のうち、最後の乗換駅で電車を待つ。よく乗ることが多いダイヤの急行列車の便だ。どこだとは書かないけれど、隣の駅は各駅停車しか停まらない駅でこの電車は急行なので通過する。家まであと少し。そう思いながらドアの近くに立って、外を眺めていると、急激なショックというほどではないが、電車が通過するはずの駅で停車した。

「え?なんで?」

音楽を聴いていたイヤホンを外すと車内が少しざわつき始めている。ここで電車の車掌さんからアナウンスが。「当列車において人身事故が発生しました。」と。繰り返される説明。復旧までにはしばらく時間がかかりそうなこと。とりあえず、このままお待ちください、というアナウンス。少し様子を見ようと空いている席を見つけて座る。隣の若い2人組がアナウンスを聞いて言う。

「車掌さん、声が震えている…。」

普段利用していて、この路線で人身事故が発生というのはあまり聞かない。単純に乗務員の方が事故で動揺している、そういうこともあるんだろう。アナウンスで状況は少しずつ明らかになり、警察のパトカーのサイレンの音が聞こえてきて、レスキュー隊の人が電車のすぐ横のホームを歩いて先頭方向に向かっている。再度、車掌さんのアナウンス。

「お客様は、一番後方の出口より順次お降り下さい。」

電車はちょうどホームから数mほど先頭がはみ出しているもののほとんどのドアは通過するはずだった駅のホームに接している。とは言え、乗客に事故現場を見せるわけにもいかないから配慮なのだろう、と思った。

最後尾の列車から降りると警察官の方が、人の流れを整理しつつ目撃者を捜していた。俺自身はちょうど電車の進行方向と反対を向いてたので、該当しないため、そのまま通り過ぎた。

俺は、この時、その飛び込んだ方がどれだけの気持ちで電車に飛び込んだのか考えていた。そして、周りの人の無関心さについても。こういうことを書くと偽善者くさい言い方なんだが、そうではなくて、むしろ俺はその飛び込む側の人間だったかもしれないからだ。

その人はきっと涙を浮かべるような状態で恐怖に耐えながら震えながら立ち上がって一歩を踏み出したのではないか。想像しているうちにそのリアルな状況を自分に置き換えて考えて鳥肌が立ってきた。周りの人たちはどうして、自分の足元にその人の亡骸が転がっているかもしれないのに、こんなに平然としていられるんだ・・?何故?

「他人に迷惑をかけるような死に方はよくない。」という人はよくいる。しかし自殺願望がある、決行しようとしている人にとっては、「死に損なって下手に生き残って自分でケリをつけられない身体になること」が一番恐ろしいように思う。もちろん迷惑はなるべくかけたくない、だけど確実に逝ける方法っていうと限られてくるんだよね…。そんな状況では四の五の言っていられないというのもあるし、最後くらい許してくれ、という気持ちもあるかもしれない。そして、この人の場合は電車を選んだ。おそらく遺体がどうなるかくらいは分からないわけがないし、そんなことすらもどうでもよくなる精神状態だったのだろう。

ただ、絶望しているだけでも自殺を既遂することも難しいし、人はそういう絶望ならある程度のレベルまでは耐えていける場合も多い。だけど、もしもう今日死なないと、絶対来てほしくない明日が来るなら?あるいは絶望に加えて自殺する「やる気」がでている場合はどうか?過去の自分の経験を振り返ってもこの「やる気」が出ているというか躁鬱混合状態みたいなないまぜになった状態が一番危ない気がする。普段なら越えられない「壁」を越えていけるからだ。

この「壁」。人によっていろいろ異なるものだと思う。ある人は親より先には死ねない、という人もいるだろうし、自分で作った家族を置いてはいけない、という人もいると思う。 俺は帰りながら、「自分にとって壁となる存在の人はいるだろうか?」と考えた。過去に両親とはいろいろと葛藤を抱えているせいか、2人の顔を思い浮かべてもあまり引き止める力にはならないと思ってしまった。俺には妹が1人いる。割と年が離れて育ったせいかケンカも少なく、自慢じゃないが俺は「いいお兄ちゃん」でいられたような気はする。彼女を置いて自殺したら…、うん、やっぱりそれはダメだ。他にもいろいろな人の顔を思い浮かべてみたけれど、妹1人だけがブレーキなんだ、と改めて思った。妹よ、悪いけど兄はお前を生きる理由にしてもう少し頑張って生きてみるよ。

2014年3月10日月曜日

桜は好きか?

もうすぐ桜の咲く季節。そこかしこでもうあと1ヶ月もしないうちに桜が咲くんだろう、と木々を眺めて思う。「桜は好きか?」と問われたとしたら、以前なら好きです、と答えたと思う。だけど、ここ何年かは桜が咲く度に無為に1年を過ごしたことを痛切に思い知らされるような気がして、だんだんと好きではなくなってきている気がする。嫌いというほどでもないけれど、とりたてて好きでもないような…。

桜の見事に咲いたときと散るときの花びらが舞う様、そしてそれが雨でベタベタになるのは感心するようでもあり、何だか辟易とする時もあり。

インディアンの言葉で戦いに出る日に「今日は死ぬにはいい日だ。」という言葉があるらしい。人生最後の日が来るとしたら、桜が咲き誇って散り始める、そんな晴れた天気のいい日であるといいな、と。また西行法師も歌を残しているね。「願わくば 花の下にて死なん その如月の望月の頃」と。桜の下には死体が埋まっている、とか春になって桜を眺めていると美しい日常のすぐそばに死が潜んでいる、そういうのを無意識に自覚するからなのかも。

こんなことを言うにはまだ若過ぎると言われる年齢なのかもしれないけれど、自分の気持ち的にはもう上っていくばかりの若い頃は過ぎて後半戦。下手したらあっという間に終わってしまうこともあり得る。いつそうなってもいい様に、というわけではないけれど、今、目の前にあることを大事にしながら一歩ずつ出来ることをやっていく、それくらいしか1人の人間に出来ることはない。