2022年2月5日土曜日

嗚呼、惨めなり~3回目の休職が決まった

 

 昨年2021年の6月から9月頭まで休職していた。これが2回目の休職で、1番最初は2010年~2011年にも9ヵ月休職していて、この時は、自殺企図の惧れ有り、とのことで、主治医の医師から即入院を言い渡された。とは言っても任意入院だったんだけど…。この時は空きが無くて、閉鎖病棟に入ったのだった。2回目はほとんど溜まっていた有給休暇で乗り切った。2か月くらいだったので、何とかなった。あとは復職に当たって再発防止シートという自己分析のようなことも書かされたかな。なぜ、自分がうつ病になって仕事を休むまでの状態にまで落ちたのか分析せよ、という事だった。建前としては、自分自身のうつ病は「私傷病」ということになっているので、仕事とは関係なく勝手に病気になりました、申し訳ございません、という形で、自身が出来る限りの再発予防策を書いて産業医に提出した。マインドフルネス瞑想を続ける、とか、運動療法としてランニングを定期的に続ける、と言うことを書いたと思う。

 ただ、11月の終わりくらいから少しずつ歯車が狂っていき、12月になる頃には再び強い希死念慮に苛まれていたと思う。自分の意思とは関係なく死のイメージが頭に浮かんでくる。多かったのは、自身が打ち首になるところだ。ちょうど下の画像のようなイメージだ。首を落とされる前に前かがみになって、刀を持った処刑人が振りかぶる。刃が自分のうなじに当たる寸前、自分のこれまでの人生を悔やみ、涙が浮かぶ、そんな感じだった。

 希死念慮は更に酷くなっていき、それを暴発させない為に俺自身の中で消化するために、自分のドッペルゲンガーを目の前に想定して、包丁や刃物でめった刺しにするというイメージを繰り返していた。そうでもして憎い自分自身を滅殺しないと気が狂いそうだった。

 9月に復職したばかりだったが、仕事は俺1人にかかる負担が大きかった。顧客対応、担当案件で、別のチームにも影響が出ることを1人で準備し、問題ないことを顧客に説明していった。同じ案件で他のベテランのメンバーの方も複数いるのだが、WEB会議という場だからなのか、発言すれば自身が説明義務(またはその資料などの作成義務)が生じるためか、フォローしてくれる発言はほとんど無かった。調子は悪いながらも何とか年末を迎え、俺は久しぶりに帰省した。

 オミクロン株が流行する直前だったので、帰省中の交通機関はとても混雑していたように思う。ここで、人混みによる人酔いのようなダメージを受けて実家に辛うじてたどり着いた。年末年始の休みの間もずっと頭痛と胃痛に悩まされ、精神的には休まらなかったように思う。

 年が明けて、これはもう仕事を続けていくのも結構キツイな、という状況だったが、主治医の診察ではただ、「今は耐えて頑張りましょう。」と言われるのみ。1月上旬と下旬でも変わらず、今回は主治医は俺が休むことに対して頑ななまでに否定的だった。この頃は、夜中にあそこの場所に行って首を吊れば朝まで見つからないかもしれないな、とかそんなことを具体的に考え始めていたように思う。クレモナロープを用意して他にも必要な機材を揃えれば自殺企図までもう少しだ。 

 職場では、俺に属人化した業務があり、年度末に向けて取りまとめの作業に入る頃だった。ここで俺がまた休職でもすれば、本当に案件1個の検収に穴が空く、それも心理的に圧迫になっていた。この辺りは主治医には伝わらなかったのだろう。職場の上司や同僚も、「何とか休まないで頑張ってくれ。」と悪気なく言うので、もう無理ですよ、とは言いづらかった。日に日に出来ることは減っていった。対顧客での打ち合わせで俺が作った資料の説明は上司に代わってもらった。これはもうダメだな、と諦めたのは顧客ではなく取引先の割と仲良くやらせて頂いている方からの電話にすら出られなくなったことだった。電話はPC上で受けるUC電話になって数年経つが、電話を受けられないのではさすがに仕事にならない。もはや休職しかないのか、と諦めた瞬間だった。

ただ、この直後の診察でも主治医の見解としては「休職というのは何か違うんですよねぇ…。」と…。何が違うのかはもう問う気力も無かったが。。。この後、産業医に連絡して、業務の状況や抑うつ状態や希死念慮が厳しいということをメールで相談した。いつもは産業医面談は上司および総務の方も入れて4者面談になるので、産業医にのみ相談したい、と言って4者が集まる前に面談の時間を作ってもらった。そこで、希死念慮と混然一体となった状態で業務遂行をしていくのはとても辛いこと、このまま耐えれば耐えるほど後々の回復が遅れるであろうこと、また、最悪は自殺が既遂出来てしまうことを相談した。産業医の先生から主治医に手紙を書いてもらい、それを見た主治医が診断書を書いてくれて、ようやく休職になった。ただ、主治医との関係はこれでこじれてしまったかもしれない。実家で療養すればいい、ということで、処方薬を出せる最大期間の1か月分の薬と診断書を受け取り、休職と相成ったわけだが、もうこちらも積極的に貴方のことを診ませんからね、という若干の拒絶感を感じる。

俺の実家はかなり遠方にあるので、帰省するのはなかなかエネルギーを使うが、一旦、帰ろうと思う。戻ってこれないかもしれないが…。そうなったら診断書の期限が切れてってなると、どうなるのだろうな。

何だか治療も真面目に受けても、治ることも無く、苦しみ続けるだけの人生。苦しむことが重要なら意味もあるのかもしれないが、それを除けば、ただ耐えるのみの人生に意味はあるのだろうか。薬を飲んで不安定ながらも仕事を続けて、それ以上の解は無いのだろうか?最大容量まで飲んでも結局、仕事から脳が破壊されるレベルのストレスを受け続ける。これでは抜け出せない無間地獄だ。

2021年11月25日木曜日

抑鬱状態に苛まれる「俺が何したって言うんだよ。」


  10日ほど前から、いや、11月に入ってから少しずつ調子が悪くなってきている。特にこの10日間で加速度的に精神状態が鬱状態に傾いていっている。瞑想やジョギングは夏から続けていて(瞑想は少しサボり気味ではあったが)、これは俺の精神を少しでも健全に保つツールだとも思っていた。ジョギングは純粋に走るのが楽しいと言うのもあったのだけれど、今はあまり走りたいとも思えないし、無理やり着替えて準備運動して嫌々外に出て走り始めて…だいたい5㎞を超えれば頭の中が空っぽになってくる。でもちょっと辛い。瞑想はネガティブな雑念が次々と浮かんできて、煩悩だらけでうまく行かない。

 こういう鬱状態に陥る度に思う。「俺が何したって言うんだよ。」 

問うても誰も答えてはくれないのだが。精神疾患も患者の人それぞれで症状も千差万別でしょう。薬の相性もある。Aという薬がある人にはとてもよく効いても、そのAが俺にもよく効くという保証はどこにもない。また薬を増やしたり減らしたりしたからと言って、それで症状が良くなったり悪くなったりするようなものでもない。人間の精神はそんなデジタルなものじゃない。薬を減らして悪くなっても、じゃあまた増やせばいいじゃん、ということでは解決しないことの方が多い。

この病気さえ患わなければ、俺はもっと色々なことが出来ていただろう。そう思うことがよくある。仕事上の評価は分からないけれど、趣味や好きだったことも出来なくなっているようなことはなかっただろう。今となっては無意味な後悔だけれど、人間関係ももっと繋がりを保っていたかもしれない。友人ももっと残っていて、恋人と結婚したりもしていたかもしれない。

鬱病は罹患する人数が多いせいか、遺伝しない、と言われているが、俺はこれはポリティカルコレクトネス的なものだと思っている。俺の鬱は23歳の春から始まった。しばらくは毎年春になると鬱が悪化していたので、春=死のイメージが付きまとう季節だった。 統合失調症や双極性障害は思春期から青年期に発症する人が多いと聞く。鬱病に関しては40代~50代になって初めて発症する人が多いとも。俺のように青年期に発症した人間はやはり、前者の統合失調症や双極性障害的な発症に近いのではないか?そして、こういう精神疾患はもし子供が出来たら遺伝するのではないか?そんな風に考えている。

23歳から耐えて、29歳でとても大きな強い希死念慮に襲われて精神科病棟に入院。その後、別の心療内科でやっている復職のためのデイケアに通い、実践できそうな心理療法などを教えてもらう。その中でマインドフルネス瞑想が自身の好きなオートバイで走っている時の感覚に近い感覚を得られることから、断続的にではあるけれど続けてきた。精神的に好調な時は運動もするようになった。有酸素運動でストレスを浄化するのだ。しかし、いざ精神的に不調に陥るとこれらのことは役に立たない。薬を飲んで、少しでもよく眠り、体を休め嵐が去るのをひたすらじっと耐えて待つしかない。そして40歳の今もまた鬱の嵐に襲われている。

 そんな嵐の中で独り言ちるのだ。「俺が何したって言うんだよ。」

2021年10月1日金曜日

帚木蓬生の「閉鎖病棟」を読む

 

 帚木蓬生氏の著作の「閉鎖病棟」を読んだ。この本を手に取ったのは10年前に俺がとある精神科病院の閉鎖病棟に入院していたから、シンパシーによるものだ。 

 2010年の12月半ばから年末年始を挟んで翌2011年1月半ばまで、約1か月強、僕は精神科の病棟に入院していた。この時は、自殺の危険性が高い、ということで当時の主治医から入院を強く勧められて入院することになった。任意入院だったが 12月は空きが無く閉鎖病棟に、1月は空きが出来たとのことで半開放病棟に入れてもらった。

小説ほどの目立つ患者さんやイベントは起きなかったが、小説の世界は戦後~昭和4、50年代を舞台にしているように思える。方言や地名から舞台は福岡県太宰府市だと思う。福岡の出ではないが、僕も九州の近県の出身なので親戚の人や友人知人で福岡弁をしゃべる人もいて、登場人物たちの福岡の方言は懐かしく染み入るようだった。

昭和4、50年代の作中と平成の後半の自身の入院経験とを照らし合わせると病院の中の様子はほぼ似通っている、と感じた。ほとんどは統合失調症の患者さんが多く、1か月強で退院できたのも主治医から「うつ病の貴方は、あまり長く入院していると根が生える。」と言われたからだった。

読んでいて、心に留まった一節を抜き書きする。

 毎日黙々と掃除するドウさんと、薬草の自称専門家であるハカセがどうして同じ病名なのか、チュウさんには納得がいかない。ムラカミさんだって、ドウさんとハカセとは似ても似つかない人間ではないか。

 比較的最近入院してきた敬吾さんやクロちゃんも、おそらく精神分裂病ということになるのだろう。

 精神分裂病という病名は、人間を白人や黒人と呼ぶのと大して変わらないのではないのだろうか。白人にもさまざまな人間がいるように、精神分裂病にもさまざまな人間がいるのだ。

 そんなふうに考えてから、チュウさんは自分の病名をとんと気にしなくなった。黄色人種という呼び方と同じだと思い、それなら主治医もやはり黄色人種だろうに、と少しばかり可哀相になるのだった。

 作者は文中でこうも綴っている。

患者はもう、どんな人間にもなれない。秀丸さんは調理師、昭八ちゃんは作男、敬吾さんは自衛隊員、ドウさんは大工、キモ姉さんは芸者、ストさんは会社員、ハカセは医師、テシバさんは畳屋、という具合に、かつてはみんな何かであったのだ。おフデちゃんだって、働いたことはないが、内科医院のお嬢さんだった。

それが病院に入れられたとたん、患者という別次元の人間になってしまう。そこではもう以前の職業も人柄も好みも、一切合財が問われない。骸骨と同じだ。

 これも応えた。病院に入ると外界からは切り離される。ベルトや靴紐など首を括れる可能性のあるものは持ち込み厳禁だ。トイレットペーパーのホルダーまでトイレから無くなっていたのは吊る場所を無くすためだろう。つまり、それほどまでに患者の院内での事故(つまり自殺)を畏れて対処していると言える。

 主人公のチュウさんは、若い頃に統合失調症を発症しておそらく陽性症状が出て困った家族によって病院に入れられた。しかし、入院していた長い時間の間に法律が変わり、彼は任意入院ということになっていた。タイトルは閉鎖病棟だが、主人公のチュウさんやその周りにいる親しい秀丸さん、昭八ちゃん、敬吾さん、島崎さんは梅の花を見に外出している。チュウさんは、日中に町に出かけて夏みかんなど食べ物や日用品を買い物をし、多少のマージンを乗せて院内の患者達に売りさばいている。余った夏みかんを秀丸さんと一緒に食べているシーンが微笑ましい。症状が治まっていれば、精神疾患の患者とて、普通の1人の人間に変わりはない。ただ、この時代は家に置いておけない、村に町のコミュニティに患者である自分の家族を置いておけない、そんな家族側の都合も大きくあったようだ。

 終盤では、若い頃、自身の退職金で買った土地に建てた家で、母が長年住み亡くなった家にチュウさんは帰ろうとする。 30年入院していて一度も見舞いに来たことがなかった妹夫婦が病院に乗り込んできて、主治医にあれこれ理由を付けて、チュウさんを入院させたまま家に帰すまいと抵抗する。誰だって面倒ごとは嫌なのだ。そういう時代に比べれば、僕が入院した時も今も精神科の病棟も少しは社会との距離が縮んだと言えるかもしれない。

 当時の僕は休職して入院していたので、会社の上司も駅から近いわけでもないのに見舞いに来てくれた。当時の僕はまだ精神的に未熟で、疲れた顔をして髭も伸び放題のまま見舞いに来てくれた上司に会ったが、今思えば、もっと身綺麗にして会えばよかったと思う。それが他人に対する礼儀というものだ。上司からは外来と入院病棟が一体となった精神科を初めて見たようで「よくこういう病院を見つけたねぇ。」と言われた。当時の僕はいつか入院するのではないかという漠然とした不安から病棟がついた家からもそう遠くないこの病院に外来で通っていたのだ。 

 元気になって退院して外の世界で暮らしていると、あまり病棟に入院したいとは思わなくなる。食事もイマイチだったり入浴も週に2回だったり、毎食後、看護師さんの前で水の入ったコップを持って列を作って薬を受け取り、目の前で飲んでみせて口の中を開けてちゃんと飲んだことを示さないといけない生活が異常な世界に思えるからだ。しかし、病状が悪化してくるとあの閉じた世界で、守られた空間に戻りたくなる。そんな時はかなりまずいことになっているが、いつかまた、病棟に入る日が再び来るかもしれない。

2021年9月1日水曜日

復職の条件

 


6月下旬から休職して療養した結果、そろそろ復職して良い、という主治医からの許可が出た。復職してよろしい、という診断書を主治医からもらい、会社の上司へ郵送して送ったが、会社指定のフォーマットで記載してもらう必要があるので、もう一度、そのフォーマットに従って主治医に書いてもらい、提出せよとのこと。診断書は1通で3300円なので、何度も出すことを求められると地味に痛い。

先週、復職のための面談を産業医、上司含めた会社側と行い、診断書を出しなおすことと、自分なりの休職に至った経緯の分析と再発防止策を紙にまとめて提出することとなった。精神疾患による休職からの復職で再休職に至る割合は半年以内で4割にも達するという記事を見かけたので、会社側が慎重になるのはもっともだ。拝承。従います。

 間違っても、精神疾患で休職することは、交通事故に遭うようなものだ、という論調にならないように文章を組み立てる。でも全くの無益な行為ではない。分析によって、なるべくしてこうなったのだ、という納得も得られることだった。

10年前、2011年に年が改まる少し前から俺は閉鎖病棟で入院していた。自殺の危険があるため、とのことだったし、当時の俺はいつか閉鎖病棟で入院して自殺の危険から保護されるような身分になるに違いない、という予感めいたものもあって、その精神科病院の外来に通い続けていた。今回の休職でも、やはり診断書が出る直前には自殺することしか考えられなくなってしまい、業務はやりつつも心は千々に乱れ…という状況だった。

今回の休職については、原因が起こってから休職という結果に至るまで約3か月。面談では、アウトプットが出せていたので、特段配慮する必要はなかった、と言われた。だが、3月から俺は不調を訴えていたのだ…。アラームを出していた。自死を考えている、というのは何度も訴えた。それなのに、それが仕事上のアウトプットを出せていたから問題ない、という理由で片付けられては、アウトプットは出せていましたが、気が付いたら奴は首を括って死んでいました、なんていうことになるのか…?

まぁいい。思うところは多分にあるが、やはり、同じ環境でも病む人間とそうでない人間がいる。病んだ者としては、その落とし前を付けるためにも、再発防止策とやらを書き連ねて提出することとしたい。

俺にも仕事に穴を開けて同僚に対して、申し訳ないことをした、という思いはある。取り返せるとも思えない。ただ、分を超えた能力で組織に貢献することは残念ながら不可能だ。少しでも自身の精神面と身体面の健康と向き合った中で、引き出せる最大限の能力と努力で以って応えたい。

労災として認められたいという訳ではない。休職制度があるだけマシということもあるだろう。そして俺の替えはいくらでも効く。ただ、精神障碍者Aとしてしか扱われない、それは悲しい。人として扱って欲しい。そう言う願いを込めて、この記事をアップする。

2021年7月17日土曜日

仕事に生活を与えてもらったが、俺自身は壊されてしまった

 

今日は主治医の元への週に一度の通院日だった。何だか酷く疲れていた。本やテレビは目を向けることもあるけれど、最後まで読んだり見たりする気力が無いことは伝わったと思う。病院に行き薬局で薬を受け取り、駅まで歩く道すがら陽は傾き夕暮れ時だった。仕事を終えた人々とたくさんすれ違う俺の足取りはいつも以上に重かった。

ふと仕事にはまだ戻れない、いやもしかしたらもう戻れないのか…、そんなことを考えた。考えさせるに十分な寂しい夕暮れ時だった。会社に入って仕事をすることでこれまで生活をしていくのに十分な給料をもらい、云わば生活を与えてもらったと思っている。だが、10年ぶりの二度目の休職で、俺自身は完膚なきまでに壊されてしまったこともまた事実だなと思った。

何か泣き笑いのような表情しか出来なくなっていて、持っていた文庫本をもう少しで読み終わりそうなこともあり、病院から駅までの帰り道にある喫茶店に寄って本を最後まで読み終えた。本は遠藤周作の「ただいま浪人」という本だった。20年以上前に買った本だが、今では多分絶版になっていて、活字も現代の小説本よりも小さい。おまけに770頁以上ある。おそらく、再版されるとしたら文字を大きくする都合上、上下巻に分かれるだろう。初めて読んだころ、俺はまだ受験生だったか浪人していた時か(浪人の時だったからこそ買った気もする)、もしくは大学生だったか…。だが20年経って内容は全く覚えておらず読み進めて行くと、些細なことだが、自分に関係あることが少し書いてあった。奇妙な縁だ。

 喫茶店での読書を終え、帰りの電車に体を滑り込ませる。何だか混雑している電車も息苦しさを感じた。ふと電車が大きく揺れて、俺は車内で一人無様に転んだ。足を踏んだ人やぶつかった周りの人に謝罪しつつ、どうしようもない情けなさを感じた。涙が出そうだったが泣けなかった。喉は何かが詰まったかのように感じ、いっそ何か刃物で突き刺してしまいたかった。 

おそらくこの病気に出口は無い。そしてネガティブでいる時間が精神面で健康な人に比べて長い以上、身体面についても何かしらの悪影響を与えるだろう。何もしなくてもあと20年くらいで俺の人生は終わりになるかもしれない。そんなに長生きは出来ないのではないか。そんな気がしている。人生を終わらせるなら、小説の人物のように周りの人との繋がりを泣く泣く断っておかないといけない気がするし、こんなことを考えている以上、病気が治る見込みも薄い気がした。

一度だけのうつ病の発症だったらもしかして、治ったかもしれない。しかし、何とかやり過ごしているうちに人生の半分近くがうつ病を患っていた年数になっている。俺の精神は歪み壊れ、もう元に戻ることは無いだろう。

2021年7月4日日曜日

休んで療養することが決まりお御籤は大凶を引いた -孤独のRunnaway-

 6/17(木)に産業医面談を受ける。産業医と課長、総務と僕の4者でのWEB面談だった。面談では会社の産業医には休職を命じる、ということは出来ない、もしくはしたくない、ということのようで、5月以降の窮状をいくら述べても、それは弱りましたねぇ、というばかりで暖簾に腕押しだった。

しかし、2日後の6/19(土)の診察で、色々とメモにして持っていった症状や困っていることを主治医に全部話し切らないうちに「もう仕事にならないでしょう?思い切って1か月休むように診断書を書くから。」と言われた。10年ぶりの二度目の休職である。10年前、休職が決まった時、僕は自死の危険有りとのことで、任意入院だが精神科の閉鎖病棟への入院が決まった。今回は病院は異なる。現在の主治医は復職してから10年にはならないがずっと診てくれている先生で、めったに休め、とは言わない。休職で患者が受ける働けない期間に受けるデメリットや仕事に戻れなくなることを考慮してのことだと思うが、初めて、全部言わなくていい、もう休んでいいから、と言われた気がする。 

翌週月曜の6/21(月)に在宅勤務でPCを立ち上げ、産業医と課長に向けてメールで状況を報告し、産業医と課長、総務とのWEB面談が決まった。午後からは今の業務を引き継ぐため、引継ぎ会を課長と1時間半程度行い、休みに入ることとなった。引き継ぐ相手が課長しか居ないというのが今のうちの課の窮状をよく表していると思う。僕が居なくなったら誰も引き継げる相手が居ないから課長が引き継ぎ相手なのだ。課長は「1か月で戻ってきてくれることを期待するよ。」と言っていた。この仕事が大変なのは年度末なので、そこで僕が居なかったらおそらく業務は回らないだろう。

6月に入って僕はよく聴いている曲があった。B’zの"孤独のRunnaway"という曲だ。「本当は誰もが愛人探しに出かけたがっている」 という歌詞が耳に残りやすいが、そこではなくてこの曲は何もかも嫌になって失踪してしまった者のことを歌っているのだ。折しも世間では某野球チームのコーチが失踪して世間を騒がせている頃だった。「俺もどこかに消えてしまいたいなぁ…。」なんて思いながらニュースを眺めていた記憶がある。

 

 

B'zの公式の動画はあまり無いので、6月にYoutube見つけて聴いていたアマチュアの方達のリモートセッションの動画を紹介。ボーカルの方の声質も稲葉さんによく似ているし、演奏も皆さん上手で素晴らしい。こんな陰気なブログに引用してしまって申し訳ない。この動画も何度も見て歌詞を口ずさんだなぁ。エレキギターを昔やっていたので、元気になったらこういう曲を弾いてみたい。

 

雨上がりの明け方 とっくにおまえは消えていた

電話もよこさないで

大好きだった女 飲み仲間 順調だった 仕事まで

何もかもほったらかし

何がいやだったの 金なの?マンネリなの?

今頃おまえはどこかで叫んでいる like this!

(中略)

いい迷惑だと みんながあきれ返った後

また普段の生活を続けている

何が大事だったの

出て行ったやつの口グセだけが目の裏で踊る like this!

 

今、仕事で苦しんでいる僕が消えても誰かが迷惑だなぁ、と言いながらきっと仕事は引き受けてくれる。僕がいなくなっても一時は大変かもしれないが長い目で見れば居ても居なくても同じようなものになっていくはずだと。

今回、潰れた理由は簡単だ。課の人的リソースが不足して、僕に課せられる仕事の案件がほど5月から増えた。うちの会社は昨年、合弁会社を興して、課員のうち何割かがそこに出向という形で勤務することとなった為、合弁会社の目的に沿わない意義の仕事は手放すことになった。よって、当時、一緒に仕事をしていた同僚はいなくなり、彼らの持っていた仕事を僕が引き継いだ。仕事上のラインとしては担当が僕で上長は課長ということになった。もともとうちの課は2つに大きく技術分野が分かれていて僕が入社以来、属しているAという分野のグループ、そしてもう一方はBという部の中でも花形のグループがある。入社した時はBグループを志望していたがAグループに配属になり、業務をこなしていく中でそれなりの充実感も感じるようにして15年以上、業務に従事してきた。またどこかでBグループからはAグループは技術的に劣っていると見下されて?いる面も分かってくるようになり、入社当時に抱いていた単純な憧れはとうに無くなっていた。分野が異なるので同じ案件でもAグループとBグループからそれぞれ人を出して対応している。だが、昨年度の人繰りの問題で僕が抱えている案件はずっとやってきたAグループの仕事とBグループの仕事を受け持つことになった。こういう状況ではあったが、昨年度は何とか関係者の人たちの協力もあり乗り切ることが出来た。

今抱えている案件は、いつも年度末に毎年結構な苦労をして成果を報告するためのまとめ作業が発生する。これらを何とか関係者分を含めて、マネージ仕切って乗り切れたが、ここで既に僕のガソリンは尽き掛けていた。5月に課長にちょっと精神的に行き詰っていることを産業医面談の場で話したが、課長と少し2人で話をしよう、と言われ、何故か合弁会社の方で受けきれない新規の案件(A、Bグループで別々にカウントするなら2件)にアサインされることになった。アサインされたばかりで、現実的な大変さはまだほぼ発生していなかったが、今後の業務計画を練りながら、これは今の僕には完遂することが出来ない、と内心、絶望していた。

この10年、産業医との面談がもう当人に問題が無いので卒業となったこともあったけれど、基本的にはずっと受けている。また、課長からは産業医面談を受けている人には悪いけど人事上の好評価は付けられない、と言われたこともある。なので、人事上のことはもう諦めてせめて自分が出来ることで会社の役に立とう、それ以外は(悔しいが諦めて)どうでもいいと思うことにしよう…そう思ってやってきた。また、10年前に休職していて元気が出てきた時に思っていたのは仕事で命を奪われるまで追い込まれるのは馬鹿馬鹿しいということだ。その後もぐるぐるとした希死念慮に苛まれる日々は数年前まで続いていたが、自分自身が中年と言われる年齢に差し掛かってきて精神的な負のエネルギーも落ち着いてきたのか、あまり希死念慮に悩まされることも無くなってきた。こう言ったことがあるので、10年ぶりに二度目の休職になってしまったのは個人的にすごく残念だし、職場に対して思うこともある。おそらく1ヶ月後にもし復職できたとしたら引き継いだ業務をすぐに100%こちらの手元に返されるだろう。活字も頭に入らないくらいに弱り切っていた6月下旬に比べると少し本も読めるようになってテレビも見られるようになってきたが、今の自分にはまた元の仕事量を振られるのが怖い。

余談だが、休みが決まった後にお御籤を何の気なしに引いてみた。結果は大凶。初めて引き当てたが、「やっぱりな」という気分の方が強くて思わず笑ってしまった。


お御籤に書いていることを文字にしておこう。

天の下 国原くらし み空ゆく

月の光は さやかなれども

ふして見れば山野は暗く。仰げば真如の月が照っている。

その接し会ったところに立っている自分を見失ってはならぬ。

此処で静かに思慮を深め目標に向って一歩を進めなさい。

○願望 急には思う様にはならぬ

○縁談 本人同士の意志の通じ方が足りぬ

○交際 親切だと思い込むといけない

○産児 丈夫な児が生まれる

○病気 回復がおくれる

○転居 やめた方がいい

○事業 人の口車に乗るな

○試験 目上の人の意見に従え

産児以外はいい項目が無いように思えるが、「○病気:回復が遅れる」が個人的には一番ぐさっと来た。

2021年6月12日土曜日

体調を崩してしまった -Not even you-

始まりはゴールデンウィーク明け少し経ってからだった。いや、年度末の忙しさの3月を何とか乗り切っている最中からだろうか…。病気までは行かないけれど、病的になっていくまでのグラデーションの中にいた。そこからは段々とぬかるみに嵌るように足が取られ始めて、気が付いたら腰まで泥沼に浸かっているといういつものパターンだ。この辺りになってくると、焦燥感も強いし、ここ年単位で感じないようになっていた希死念慮も出てくる。正直、苦しい。
俺が勤めている会社は1年前のコロナ禍に入ったところから、在宅勤務になった。独居で暮らしている俺のような人間には、仕事で取るコミュニケーションを除けば、人と会話することもほとんどない。昨年度から一緒に仕事していた同僚も別案件に取られ、残された俺は去っていった同僚の仕事を引き受け、何とかやってきたが、相談できる人間はいない状態になっていた。結局は一人なのである。
 
毎月、上司立会の下、産業医面談も受けている。このご時世なのでWeb会議でである。3月辺りから体調の不調は訴えていた。もうこれはダメかな…、と思い5月の面談で、「すみません、ちょっともう無理そうです。」 と切り出した。孤独なら出社してみてもいい、という助言ももらったけれど…。出社してもフロアにはごく一部の人しか居ないんだよな。結局、誰とも会話しないで退勤する、ということになっていた。ただ、上司と出社時に顔を合わせたので、ちょっと個別に話をしようか、ということになって、ここで新たな案件を任されることになった。本来やるはずだった人達が多忙を極めていてとても対応できないこと、また、俺の得意分野だから、ということがアサインの理由だった。この後、更にもう1件、案件のアサインがあったのだが…。ちょっと無理だなぁ、という気持ちが今は強い。

休職するとなると、独居の俺のような人間は、一人じゃ何をしでかすか分からない(つまり自殺とかされても困る)ということで、実家がある場合は帰れ、ということを産業医から命じられるそうだ。ただ、俺の今住んでいる場所は緊急事態宣言下である訳で…。田舎に帰って老いた両親に感染させるようなことがあっても、と言うのは本音でもあるが建前の部分もある。田舎ゆえにいい年をした男が昼間から働きもせずに散歩なぞしていては、きっと噂が経つのだ。
 
少し前に母から電話で聞いた。俺が10年前に鬱病で休職していたことが人伝に伝わってきたらしい。俺は地元の誰かに話した記憶は無い…。もしかしたら、当時やっていた何かしらのSNSに何か書いたのかもしれないが…。煩わしくなってアカウントごと消去してしまった(まさにメンヘラ的行動である)。よくは覚えていないが、何かしらの鬱で休んでいることを書いた当時繋がっていた人が地元で、誰かに話した。それが人から人へ伝わり…ということなのだろうか。俺は高校を卒業するまで地元にいた。今となっては何の自慢にもならないが、そこそこの優等生で通っていた。そんな優等生が脆い精神を病んで働けなくなった、悪意があるわけではない、ただ少し可哀相にね、なんて言いながら、どこかで嘲るような気持ちも込められて、それが回りまわって、うちの両親の元にそんな話を直接してくる人がいた、という事なのかもしれない。地元に帰れば、また悪評が立つな。
 
高校生の頃から俺には多少、神経質なところもあった。最近、ふと当時よく聴いていたClawfingerというアーティストの曲をまた聴き始めた。20年前は目新しかったラップメタルだ。歌詞は、「俺がするように俺のことを愛してくれる者はいない、君でさえも」、「誰も俺が自分にするようには俺のことを必要としない、君でさえも」、そんな殺伐とした歌詞だったが、当時の俺はそんな自己責任論にも近い歌詞を好んで聴き、そして英語の歌詞も覚えてよく歌っていた。興味があったら以下のリンクから聴いてみて欲しい。歌詞もついているから。曲はClawfingerで"Not even you"。